全ての凡人への寿ぎ〜橋本治 「にしん」(『生きる歓び(角川文庫)』収録)感想
大仰なタイトルになってしまったが、それほど中身が重い感想ではないです。そもそも元の話も短編だしね。市井の一作家志望者による、ごく短い小説分析となります。よろしくお願いします。
いい話だな。上京して叔父が経営する「取り柄のない街の取り柄のないソバ屋」の出前をする浪人生の話。浪人生というか、高校卒業して進路が決まっていないというか。
叔父と父の話の成り行きから円月庵のバイトを決め、一年は同じ高校の上京進学組と遊ぶのだけれど、次第に「自分の居場所を安定させて」女の話ばかりするようになる彼らに対して、泰也は距離を感じるようになる。
また、彼は「打ち立ての生きている蕎麦を出す」という、ある有名な蕎麦屋のテレビ取材をみる。それに対して円月庵では蕎麦なんか打たず出来合いの麺を使っている。
>「死んじゃったソバでも平気で出前頼んでくる奴らばっかり住んでる街なんて、ホントに意味あるのかな」
このように、主人公の泰也はふと揺らぐ。
この蕎麦屋、出前先の会社や家、この街、そして自分。「取り柄もない、一流でもなんでもない」存在の必要性。
その揺らぎ方が、丁度のスケールでいい。
>「俺はここで必要な人間なんですか?」と泰也が円月庵のおかみさんに言ったのは、その次の日のことだった。(中略)泰也はただ「寂しい」ということをそんな風に言いたいだけだった。自分に友達がいないわけじゃない。でも、大学は新しい友達ができるところだけど、ソバ屋はそんな所じゃない。いつの間にか既に居場所が決まっていて、でも、居場所だけが決まっているのなんてつらいなと、そんな風に泰也は思った。
ここでは身近な比較として「大学」と「ソバ屋」を対比させてあるけれども、大学生が必ずしもそんなことを感じないかというとそれは違うと思うのだ。大学生に限らず、社会人でも主婦でも、誰だっていろんな場面でそれは感じるだろうと思う。「居場所だけが決まっていて、でも居場所だけが決まっているなんてつらい」。そこには「特別」「選ばれた」みたいな、「長年の職人の技」とか「生まれつきの才能」が買われたわけでもなければ、十全に自分の「居場所」たりえる満足感を感じられるわけでも、ない。そういう「居場所」というのは至るところに存在していて、それが「取り柄のない街の取り柄のない」人々全体の表現として継がれている。
にしん蕎麦に入れられる前の、干からびた、ぽつんと置かれた表題の「鰊」(にしん)が、そこでコツンと比喩として現れる。
戸惑う叔母を見て、どうしようもないことを言い「やっぱり俺は寂しいんだ」と、泰也が思い直したところで、叔父がいう。
「お前が生きた蕎麦出したかったら、お前が店出してからやれよ。蕎麦の打ち方なんかいくらでも教えてやるからよ」
円月庵を営む叔父夫婦はもうその人生において終盤であり、自分たちの生き方をある程度完結させようとしている。対して泰也は、まだこれから「何か(蕎麦・自分・にしん)を生かす」という方向に向かっていくことが、十分に可能だ。その可能性の浮上を、作者はどうってことない風に明かす。
ナンバーワンとかオンリーワンとか、そういう風なものではなく、ただもっと、存在として愚凡なものも、鈍愚なものも、弱いものも無知なものも、どんな人間の存在も、当然のものとして見なすような。そういう書き方がいいなと思った。
平凡な人びと、死んだ蕎麦を茹で、死んだ蕎麦を啜流、なんの取り柄もない人間でも、それで生きても、十分にそれで人生としてよいのだ。いや、「よい」とか、そもそも人の生き方を評論する時点でそれは違うのだろう。
最後の「泰也はまだゴム長を履いている」という文の受け取り方も、少し多義性はあるだろう。私は最初「まだ円月庵で蕎麦の出前をしている」という風にとったが、後から考えると、話の流れからして、「まだ円月庵で働いているが、(おそらくは)叔父から教わって自分で蕎麦を打っている→円月庵を継いでいる」と読むのが、相応しいのだろうなと思う。
(画像はphoto ACより)