泥の中であなたを想う(読書感想文)
*まずこの感想は完全に個人的な思い入れによるものであり、世間一般に言う「批評」とか「分析」とはかけ離れたものである事をご承知ください。また、作者の意図や狙いを読み取っていない大暴投的な文章かも知れませんが、どうか黄金バットよろしく「ふははは」と読み飛ばして頂ければこれ幸いです。
「カメリ」(北野勇作 著 河出書房新社 刊)
いま、この文章は海を見ながら書いている。遠目から見る海はゆるやかにうねり、寄せては返す波は陸と海の境界線を瞬間ごとに曖昧にし、海はすこしずつ陸を削り、陸はすこしずつ海の中に入り込む。唯一確かなのは遥か向こうに見える水平線。視界の左右、端から端まで続く線は、感覚で捉えられない曲線と、その向こうにある存在の気配を、無言で、あくまでも静かに僕に提示する。
「カメリ」は不思議な小説だ。ヒトの「引越した」あとの世界で、生命と人工物、優しさと残虐さ、常識と非常識、虚構と現実、彼岸と此岸の境界線が曖昧な世界を、模造亀(レプリカメ)のカメリという女の子はフットワーク軽やかに歩んでゆく。ゆっくりと、考えながら、でも大胆に。
水と土が混じり合った泥が覆う世界、そんな世界は「未分化」でありながら「合一」という要素も提示してくれている。前述した要素も、この物語の中では合一され、陸に寄せる波のように「此処から此処までがコレだ」という結論を急がない。(ひょっとして、結論は出ないのかもしれない。)
「カメリ」は答えを出さない物語だ。判断と解釈は読者に委ねられ、カメリの優しさと残虐さと考える姿勢がちょっぴりの指針を示してくれはするが、この世界は読み手の思考を限定しない。ただ、読む人々の感情をちょっとだけ繋げ、同じ物を見せてくれる。海の向こうに見える水平線が直線か曲線かについての答えは個々人の解釈によるが、水平線を見る人は誰しもその彼方にあるものに対して同じ感情を共有するかのように。
「カメリ」は、ある実存と実存が「繋がる」物語だ。そのシステムを象徴的に表現しているのが、「ヒトデナシ」と呼ばれるこの世界の住人だ。人手が足りないためにヒトデから作られた、人間を模したヒトデナシは、この世界を修復する役目を持つ労働者的存在だ。彼らはお互いを並列化する事によって五感や感情を共有し、カメリの働くカフェのみんなと心(があるかどうかは定かではないが)を通わせる。
彼らはカフェの常連客であり、魂の入れ物としてヒトと世界を繋げる役目を負ったり、構造物として橋の柱になったり、連結してクリスマスツリーになったりする。その行動は大体において理解しがたい物だが、なぜか彼らの気持ちはカメリたちカフェ店員に、読者にも共感をもたらす。
別の話をしよう。ポーランドのSF小説家、スタニスワフ・レムは「ソラリス」という作品を書いた。知性を持った海に全地表が覆われた惑星を調査する科学者たちに起こる出来事を描いた傑作だが、ソラリスの世界はカメリの世界とも通じる部分を持ち、決定的に違う部分も持つ。
ソラリスの世界は基本的に他者を拒絶する。侵入して来る人間はソラリスの大気には適合できず、その構成や行動は理解不可能である。知性らしきものはありつつも、侵入者はそれに感情移入することはできない。与えられるのは自己の感情と記憶の写し身であり、そもそも、その写し身すら「偽物」であり、それ故に理解不能な他者として描かれる。
解釈考察は多々あろうが、僕はレムの書きたかった事の一つに「他者は永遠に理解できず、感情を通わせることは奇跡のような困難さを伴う」というものがあると思う。結末は救済の悲劇と捉える見方もあるが、それに伴うのは「諦念」である。
それに対してカメリはどうだろうか。世界が泥で覆われ、読者の理解を拒む世界であることは共通している。世界の真実は常に隠され、断片的に与えられる情報は世界全体の姿を捉えるにはあまりにも曖昧だ。
しかし、我らがカメリはその世界をフットワーク軽やかに歩んでゆく。ゆっくりと、考える事を諦めず、大胆に。
そしてその結果、世界に揺蕩っていた感情はゆっくりと繋がっていく。カフェのマスター、ヌートリアのアン、そして感情が本来無いはずのヒトデナシたちと。
カメリは世界の理解を強いたりはしない。そこで起こる奇妙な出来事を(自分の死ですらも)受け入れ、愛してゆく。
それは諦念ではない。受容だ。拒絶ではない。寛容だ。そして断絶ではない。合一だ。
そして物語を読み進めていくうちに読者は気づくだろう。心の片隅にあったこの世界への違和感と気持ち悪さと理解し難さが、いつのまにか、愛おしいものに置き換わっている事を。
そしてそれは、模造亀の女の子、カメリが物語世界と読者を繋げてくれたものでもあるのだ。
いま、この文章は海を見ながら書いている。雨が降り始め、雲が覆いかぶさる海の向こうには、もう水平線は見えない。空と海の境界線を曖昧にした線らしき物が曇っているだけだ。
僕は、そんな海を見て空と海の境目を理解し、言い表すことはできない。此処から此処までがほんとうの海で、彼処から彼処までがほんとうの空である、という事はあなたには伝えられないかもしれない。
でも、僕はその海の曖昧さを受け入れることはできる。海の向こうにあなたが居ると考える事はできる。その向こうにいるあなたの感情と繋がっていると感じることは出来る。この物語を通じてカメリがそうしたように。ゆっくりと、考えながら、でも大胆に。
そして、打ち寄せる波を眺めながら思う。こんなふうに世界を見る視点を与えてくれた模造亀の女の子について改めて思う。
#すごいぞカメリ と。
おわり。
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