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読書記録#50 【田辺元】「メメントモリ」
引用元:現代日本思想大系 田辺元 筑摩書房 出版年1965
死を忘れ、生を軽んじる現代
標題の「メメント モリ」は、西洋に古くから伝わるラテン語の句です。これは『旧約聖書』に由来するといわれており、田辺の説明を借りると、
けだし人間がその生の短きこと、死の一瞬にして来ることを知れば、神の怒りを恐れてその行を慎み、ただしく神に仕える賢さを身につけることができるであろう、それゆえ死を忘れないように人間を戒めたまえ、とモーゼが神に祈ったのである。その要旨がメメント モリという短い死の戒告に結晶せられたのであろう。
現代風の言葉でいうなら、「明日死ぬかも知れないということを日々意識して、後悔のないように人生をおくれ」というようなことでしょうか。たしかにこのような考え方は、昨今ではずいぶん聞き慣れたものです。ただ田辺は、この「メメント モリ」の意味が、現代ではまた違った内容を持つだろうともいっています。
なぜならば、今日のいわゆる原子力時代は、まさに文字通り「死の時代」であって、「われらの日をかぞへる」どころではなく、極端にいえば明日一日の生存さえも期しがたいのである。改めて戒告せられるまでもなく、われわれは二六時中死に脅かされつづけているのだからである。
田辺の生きた時代は、まさに戦中・戦後の日本であり、その意味では、現代の平和な日本とは少し背景の異なるところがあるかも知れませんが、しかし他国で繰り広げられる戦争の火種が、いつわが国にとんでくるやらと危惧される現状は、案外近しいものがあるようにも感じられます。それでなくても大変な感染症との闘いを強いられている私たちにとって、死の運命を自覚しないことなど逆に不可能なのです。「死を自覚せよ?」そんなこといわれるまでもない、これが本音ではないでしょうか。しかしそんな私たちに、田辺は言うのです。
しかしそれではわれわれは果して、この死の威嚇によって賢さを身につけ知慧の心を有するに至ったであろうか。否、今日の人間は死の戒告をすなおに受けいれるどころではなく、反対にどうかしてこの被告を忘れ威嚇を逃れようと狂奔する。戒告を神に祈るなどとは思いも寄らぬ、与えられる戒告威嚇の取消しを迫ってやまないのである。
田辺は続けます。
「死を忘れるな」の反対に「死を忘れよ」が、現代人のモットーであるといわなければなるまい。
私たちはむしろ、死を意識から遠ざけようとしているのです。それはある意味では達観視ですが、しかしそれ故にこそ、人は残酷なことをいとも簡単にやってのけます。死を忘れることによって、生の尊さそのものさえも忘れたかのようなのです。某国の侵略行為であったり、わが国に向かうミサイルであったり、見て見ぬふりをされる貧困層であったり。もはや、いのちが単なる物質と化しているようなのです。
今や葬式さえも贅沢品となりつつある時代。人間の弱っていく姿を看取るのは病院。事の良し悪しは別にして、私たちは「死」に対して「お客様」でいることが許されてしまっているのです。「死」は私たちから隠されてはいませんが、私たちはそれを見ようとはしません。故によっぽど近しい人が亡くならない限り、死に出会う機会もありません。しかし、それがかえって「生」の価値を曇らせてもいるのです。死を遠ざければ遠ざけるほど、生の重みは薄れて行きます。
「死」と向き合うことは難しい
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