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読書感想#42 【ドゥンス・スコトゥス】「神の自然的認識と〈存在〉の一義性」

果たして、私たちは知性によって神を自然的に認識し得るでしょうか。もちろん普通に考えてみれば、私たちの感覚は可感的対象しか感覚し得ないのですから、感覚によっては把握され得ないであろう神の概念を、自然的に知ることは出来ないと考えられます。この考えに基づく限り、神は私たちのような被造物を端緒として認識されることはあり得ません。神と被造物は程遠いものなのです。


しかし、両者は程遠くありながらも、似像でもあります。即ち、類比的には相共通する普遍を持つ可能性も考えられるのです。そして、もし被造物が神を直接認識出来るとすれば、この類似性を手引きにする他には考え難いものです。


あるいは、実は類比的な手引きの他に、神と被造物とに一義的な概念がある、とする考え方もあります。一義的な概念とは即ち、同一の主語について、同時に肯定されかつ否定されるときに、自己矛盾を来すような統一を有する単一概念のことです。そして神と被造物とに一義的なものは何かといえば、それは存在なのです。

普段私たちは、ある存在についてそれが存在していることは知っていても、それが有限的存在であるか無限的存在であるか、被造的存在であるか、非造的存在であるかについては不確かです。この不確かという点において、有限的存在と無限的存在は一義的であると考えられるのです。


神を探求するために用いる概念は、全て被造物から得るのと同じ、一義的な概念です。この意味で、神についての認識の内容は、被造物の諸形象を通してのみ与えられるのです。


確かに神と被造物は、それぞれがこのもの性を持っているから、一義的な共通概念などあり得ないと思われます。しかし、仮にある存在者がこのもの性を持っているからといって、それがその存在者から複数の述語を抽象することが出来ないという理由にはなりません。ある存在者がこのもの性を有することと、一義的な共通概念を要することとは、両立出来る筈なのです。


以上より、私たちが仮りに、この一義的概念を採用するならば、存在の一義性の範疇で、私たちは神を直接に認識出来ると結論付けて良いでしょう。

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