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読書感想#14 【西谷啓治】「ニヒリズム」

 ニヒリズムを題材に取り扱う本こそ沢山ありますが、それがどういう風に取り扱われているかについては必ずしも一様ではありません。ネガティブなものとして批判的に挙げられることもあれば、むしろポジティブをもたらす希望の種として崇められることもあり、その理解の仕方はまさに雲泥の差といえましょう。

 仮にニヒリズムをネガティブなものとして取り扱う場合、基本的にはそれは単に漠然とした虚無的な気分や風潮という意味合いで捉えられています。故に生きることに意味はない、あるいは命に価値はないなどといった考えが展開されるものだと思われています。ここでは自己自身に不満であり、人間に嫌気がさし、生きることに味気がなくなった、そのような人々を指す言葉なのです。


 しかしポジティブ側の意見では、ニヒリズムというのは決してそのようなものではありません。むしろニヒリズムというのは自己のために自己と闘う覚悟でなければなりません。世界や神という問題が消えた今、自己自身が問いとなり、自己存在の根拠が自己自身に課せられています。そして自己存在は無根拠なものとして自己自身に露呈されています。この現実に真っ向から向き合わんとすることこそがニヒリズムなのです。

 自己を虚無の中に投げこみ、その中から自己が自己に露になる時、自己は問いそのものになります。そしてそれは即ち世界存在もまた自己自身の問いと化すことでなければなりません。自己を問うことによって却って自己を遊離し、世界になるのです。これは即ち自己が歴史の内に生きるだけでなく、歴史が自己の内に生きているということでもあります。

 世界は統一的全体であるという価値観が崩れ去り、実は自己自身の価値を基礎づけるために構想された共同幻想だと知ることによって、自己を越えた大きな全体に帰依し福祉するという形での自己の生存価値はすでに喪失しました。故に人生には何等かの目指すべき理想があると信じ、その道を目指していた我々は生を失い、ニヒリズムという苦悩が現れたのです。しかしここで我々に終止符が打たれたのではありません。それは畢竟ネガティブ側の意見です。本来はこのニヒリズムを乗り越えることによって、我々は真の生に目覚めるのです。即ち虚無からの目覚め、これがニヒリズムなのです。


 人生が拠り所のないものとして感じられた時、人間存在は空しいものと自覚されます。人生は虚無なのだと考えさせられます。しかし虚無というのは単なる絶望ではなく、むしろ空虚故の創造的な立場でなければなりません。空虚だからこそ私たちは創造的であることが出来るのです。神という有が創造的な無として自覚される時、私たちは初めて自らの人生を歩むことが出来ます。即ち元来ニヒリズムとは絶対無の自覚に他ならないのです。


⬇本記事の著者ブログ

https://sinkyotogakuha.org/


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