読書感想#41 【ドゥンス・スコトゥス】「神は類の内にあるか」
「神は類の内にあるか」、これが意味するのは、無限者が有限者と共に、存在という類の内にあるか、ということです。即ちこれは、神と被造物は一義的に述語されるか否かという、存在の一義性に関する問い掛けなのです。
もし実際に、神と被造物とが存在において一義的であるとするならば、それによって神と被造物との間に考えられる優位性は否定されることになりましょう。事実、存在という概念は、私たちのような被造物においてしか感覚されないものでありますから、神の存在自体がすでに、被造物を媒介とした存在の概念に生かされているといっても過言ではないのです。それが示された暁には、私たちは自らの存在価値を過小評価する傾向や、そう強いる圧力からの解放を実現することになるでしょう。
もとより私たちが語り得ることというのは、私たちの理解能力の基盤の上にのみ成立しています。その意味で、理解されるものを全て平等に扱うというのも、十分に正当化の根拠を得ると考えられます。即ち存在の一義性は、存在における存在全体の優位性を転覆させるのです。
故に、存在の一義性が特に関心を寄せる問題は、神と被造物という超越的な関係です。例えば神と被造物には一義的に共通な概念があるか否か。
これは普通に考えてみれば、神と被造物とは矛盾対立の関係にあるが故に、共通に一義的なものはないと思われます。また共通な概念というのは、その概念が共通に適用される事物に関して中立的でなければならない以上、いかなる中立もあり得ない矛盾対立する両者に、共通に一義的な概念を見つけることは不可能であるとも考えられます。
また、こうも考えられます。初めから相異なるものは如何なる点においても適合することはありません。初めから相異なるものは、同じものを実在的には何一つ含んではいないからです。そしてもちろん、神と被造物とは初めから異なっているというのはいうまでもありません。もしそうでなければ、神は被造物と適合するところと、被造物と異なるところを同時に有することになって、神は端的に単純な概念ではないことになってしまうからです。
以上の理由より、神は被造物といかなる点においても適合することはなく、また何らかの共通な概念において適合することもないと結論付けられます。
しかし、本当に神と被造物に一義的な概念を得ることは不可能なのでしょうか。確かにある存在者が認識されるのは、第一の存在と関係付けられている限りにおいてではあります。その意味で、存在の把握は絶対的観点からではなく、類比的観点からでのみ可能であるといえます。かくの如く、もし存在はそれ自体においてではなく、関係においてしか知られ得ないとするならば、神と被造物に一義的な概念がないというのは尤もな意見です。
お詫び:当記事は、2ヶ月ほど前に書き置きしていたものでありますが、実は本日投稿するにあたり、記事の後半部分が紛失していることに気が付きました。復元は絶望的なため、未完のまま投稿いたします。なお、最初の二段落に目を通してい頂くだけでも十分、本書のメッセージに触れられるのではないかと思っております。