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読書記録#64 【高坂正顕】「ニーチェ」

出典元:ニーチェ 高坂正顕 弘文堂 出版日1949/10/5

本書はニーチェの思想を「生の苦痛と対決せんとした、もっというと生の苦痛をも肯定せんとした」という一面においてその展開を跡付ける小著です。

ニーチェの哲学は従来超人の哲学であると解されてきた。それは決して誤謬ではない。だがもしその超人を、単に人類の行方に立つ人神の如きものとのみ解したならば、それは超人を正しく解する所以ではないであろうし、少くとも超人の思想の根底をなす主要な動機を見落とすものであろう。それに反し超人とはむしろ生の絶対肯定者であり、生の最深の苦痛にも耐へ、生を抜き得る実存なのである。恐らくニーチェの生涯の思索は、いかに生の苦痛と対決し、いかにして苦痛をもなほ肯定し得るかにあったであろう。

p.34

三つの段階区分

ニーチェには三つの段階があります。

1.ディオニソス的な時代「悲劇の誕生」
2.自由精神の時代「人間的な、あまりに人間的な」
3.超人の時代「ツァラツストラ」

悲劇の誕生

「悲劇の誕生」においては芸術による生の肯定が目指されていました。

我々の世界は、それを道徳の見地、特にキリスト教的道徳の見地から眺めるならば、実にひとへに邪悪、不変、不道徳の結晶としかいいようのないものであろう。その見地からしては、我々は殆んど「生を否定せんとする意思」にまで駆られるであろう。だがもしこれに反し、世界を本来芸術的現象ein aesthetisches Phanomenであると解し、いわば芸術的世界解釈die aesthetische Weltauslegungの立場に立ったらどうであるか。既述のように芸術家の制作作用の根底には、アポロ的・ディオニソス的衝動がある。だがそれは単に所謂芸術家達だけのものではなく、深く大自然そのものの意思に基づくものだとしたらどうであろうか。その時、世界を創造する神はいわば芸術家としての神Kunastler-Gottであり、全く狐疑せず、所謂道徳に関わらず、世界を創造しまた破壊する戯れに於て、あり余る自己の生命の過剰の故の苦痛を脱却しつつあるものと解し得るであろう。この芸人風な形而上学Artisten-Meta-physikの見地からすれば、「生は本来不道徳的なものなのである。」それを強いて道徳的に解釈しようとするが故に、人は生の否定に誘惑されるのである。道徳は生を蔑視し、生を否定せんとする生の最大の危険なのである。これに反し生を本来芸術的と考えれば、そこには生の過剰による溌剌とした表現が現れているであろうし、またその限り、生は本来善悪の彼岸に立つものとして肯定され、義しとされるのである。

p.39-p.40

人生・世界・生命は非合理的であり、謎に満ち、偶然に富んでいます。しかしそれは芸術的世界解釈の立場によって、真の生命の豊穣さとして肯定されるのです。

生命の豊穣さは、却って過酷なるもの、恐怖すべきもの、悪しきもの、問題的なものを自らに要求します。

ディオニソスはかかる生命の過剰さの故に、それを脱するために、世界を創造し、世界を破壊し、世界の創造と破壊を反復するのである。

p.42

ただ、芸術的解釈の人生観は真に痛烈な生の現実性になお充分耐えるものではありませんでした。そこでやって来るのが「人間的な、あまりに人間的な」の時代です。

人間的な、余りに人間的な

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