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先祖が討ち入りから引き上げる赤穂浪士を見たという言い伝え考

父から聞いた話だが、先祖が吉良邸討ち入りから引き上げる赤穂浪士を永代橋で見たという。伝承に属するものなので、証明するものはない。祖父方なのか祖母方なのか分からないが、いずれも下総国葛飾郡在住で、江戸に近いからまったく可能性がないわけではない。

赤穂浪士の討ち入りは、1703(元禄15)年のことなので今から200年以上前のことで、25年を1世代とすると8代ほど前のことになる。昔話の語りのように祖父母から孫に話したとして、それが3回ほど繰り返されたことになる。ここで小学校の授業でよくやるような伝言ゲームを想起する。最初の子に伝言内容を伝え、それを隣の子に他の子には聞こえないようにひそひそと耳打ちすることを繰り返し、最後の子が伝言内容を発表すると、最初の内容と違っていて、伝言が少しずつ変化していくことを学ぶわけである。このゲームのように、言い伝えが次第に変化していく可能性は十分あるので、赤穂浪士を見たということも、もとの形は違っていたのかもしれない。

妻の先祖の例で、事実と伝承の揺らぎについて知ることができている。曽祖父原田信民が「水戸藩の学校で教えていた」と言われていたが、実際には常陸太田小学校校長や茨城県拡充師範学校副教員として勤務していた。このことから、茨城県が水戸藩に、常陸太田小学校や茨城県師範学校が藩校にと、言い伝えの内容が多くの人の既知の知識に引きづられて置き換わっていた。また高祖父原田鉄之助は、御腰物奉行配下の御腰物方同心だったが、何かの奉行あるいは勘定奉行だったという話も親戚が集まる時に憶測を持って話されることがあった。古文書や記録が残っていたので、事実を知ることができたが、事実は多くの人の常識に引きずられて変化する様であり、事実と伝承との比較には興味深いものがある。

「先祖が赤穂浪士を見た」という例は、記録したものはなく事実は不明なことだが、可能性として、①真実である、②赤穂浪士を見たという先祖の知人がいて、先祖自身が見たように変わった、③先祖が江戸で見た小さな事件が知名度の高い赤穂浪士討ち入りに変わった等の可能性が考えられる。②③なら、磁石のように赤穂浪士討ち入りという大事件に引っ張られたということなのだろう。これらは憶測に過ぎないのだが、過去の事実と伝承との関係を見ると、何らかの本質を残しつつも、まったく変化しないで、今に伝えられることは稀有だと思われるので、先祖が赤穂浪士を見たということの真実を願いつつ、他の可能性も頭を過ぎるのである。



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