専門学校の興隆
いつも歩く駅からの通りにある専門学校が、今日は、学校説明会のようで賑わっている。看板にコミュニケーションスクールとあるので、何を勉強するところですかと入口にいた学生に聞いたら、デジタルデザインを学ぶ学校だとのこと。よく見ると看板にコミュニケーションアートスクールと書いてある。この近くには、音楽、映画、福祉、スポーツ医療、動物飼育などの様々な専門学校がある。
専門学校は、英語では、professional training collegeとか、vocational schoolというので、それは、職業に役立つ専門技術を学ぶ学校ということだろう。高校を卒業してから入学する人ばかりでなく、大学を卒業後に入学する人も多い。昨今、専門学校の需要は多いようだ。裏を返せば、普通教育では教えない専門的、職業的知識技能の教育の場が抜け落ちているということである。賑わう専門学校の様子を見て、以下のような感想を抱いた。
教育には普通教育と専門教育がある。義務教育である小・中学校の普通教育の延長上に高校普通科があり、大学も専門的な高等教育といっても普通教育の延長のようなものだ。そもそも学校は、明治維新の日本の例をみても、産業革命後の工業社会を担う労働者を育成するために作られたが、普通教育に主眼が置かれていて、専門的な職業教育は門外だった。そういう教育は、農業や漁業なら生家の親から学び、芸事なら師匠に弟子入りし、商いのことは商家に奉公して身につけ、大工左官等の職人は直に親方から教わったというように、社会そのものが教育機関の役割を果たしていた。普通教育は、家庭や社会で学べるものは、そちらに任せ、基礎的な知識を学問の名前のもとに教えた。普通教育偏重の傾向は、明治時代からあったように思われる。法律専門学校、理科専門学校等専門学校と称したものが大学に名を変えているが、旧帝大を頂点とする学校ピラミッドが作られ、現在に至っている。真理追求のための学問の殿堂という高等教育機関である大学の魔力なのだろう。大学は実学からほぼ遠い。その周辺にいて経済活動から外れた人を漱石は、自虐的に高等遊民と称した。
大学を卒業して、普通のサラリーマンにならずに、農業に携わりたい、理容の仕事をしたいと思っても無力な自分に気づかされるのは自分だけではないだろう。もともと普通教育の対象外である専門教育は、家庭内、職場内で教えて、上手く機能していたが、閉鎖的なシステムであることは否定できない。最近まで、普通教育が果たさなかった代わりに、潜在能力のある者を採用後に企業が研修で育成する社会だった。そういうシステムが崩れたところに専門学校の興隆があるような気がしている。
専門学校が増えた理由には、①企業が社員を採用してから育成する余裕がなくなったこと、②情報化が進み職業的知識技能のレベルが上がり、独自の専門教育が必要になったこと、③終身雇用制が崩れ、不確実な将来に対して、若者たちは自分の技能を予め身につけておく必要がある自力型社会になったこと等が考えられる。さらに専門学校には、親から子に、師から弟子に狭い範囲で継承された技能を多くの人が体系的に学ぶことができる可能性がある。こんなことが、専門学校の賑わいの理由なのだろう。そこには社会の変化があるようである。
普通教育を受けても、直接に役立ったものは案外に少ない。自然に対してはほとんど無力で、山での生活方法は、登山を始めてから初めて知った。一町歩の土地をあげるから稲作をしろと言われても、都会育ちの者には、お手上げである。総合力のある人間の育成は重要で魅力的だが、普通教育が豊かな人生を楽しめる人間の形成に役立つだけでは、世の中のニーズを満たしていないように思われる。最近の専門学校の興隆を見て、小学校から大学までの教育が変化した社会に答えられていない状況を感じている。