自分で自分を終わらせる事
初めましての方ばかりかと思いますのでみなさま初めまして。おはようございます、またはこんにちは、若しくはこんばんは。動画投稿者のような挨拶を、一度してみたかった「何にもなれなかった人」です。
さて、ノートという媒体で僕なんかよりよっぽど高度な文章を綴られている方やそれに触れることが多い方からすれば、ここまでの文章とタイトルでお察しになるかと思います。この文章の主題は簡単に言えば「自殺」について、それを物書き素人が全く個人的に綴るという誰得なものです。なので、興味がなければここで読むのを終えることをオススメ致します。人によっては初めましてなのですが、もうさよならとなるのは寂しいですね。また数年後、僕がより良い文章を明るい心持ちで綴ったときにお会いしましょう。
さて、それでも読もうとして下さった方に1つ質問があります。
あなたは消えたいな、死にたいなと思ったことがありますか?
この質問はある人にとっては重いもので、ある人にとっては軽いものです。場合によっては恥ずかしいものでもあり、気持ち悪い、面倒でもある質問でしょう。自殺というものの1つの結論はここにあると僕は感じているのですが、それはさておき人によって色々な回答があり得るでしょう。
僕自身、人より少しだけ苦しい生活をしてきたと自負していて、その度に自分の色々な感情と触れあう毎日でした。そして、その有象無象の来訪者中には死にたいと思わせるものがいて、その訪れは一回や二回ではなく何度も何度もやってきて、その度に僕の心を締め上げて来ました。
なので僕にとってこの質問は凄く重い質問です。この質問に誠実に答えようとすればするほど、その感情が現れる切欠の瞬間・瞬間を鮮明に思い出してしまうのです。自殺について考えたとき誰にどのような結論が出るのかについて、こうした経験のあるなしの差は非常に大きいと思っています。なぜなら、それによって、見えるものが違うからです。
これは僕個人の意見ですが、人がある想像するとき、どんな色をみい出すのかはその人の経験や立場次第で、どんなカタチにするのかはその人のセンスで、そしてその受け手となる人の数だけ、作品につけるタイトルが違うと思っています。
例えば、自殺を考えるような僕らに、すごく寄り添った歌詞があったとして、小節(フレーズ)があったとして、俳句があったとして、それを書いた人が順風満帆に見えたらどうでしょう。
かなり昔、自殺に寄り添って鮮明な歌詞を書いたあるミュージシャンらが、ある取材の中で「ん~失敗っていう失敗はないですね、順風満帆です笑」とおっしゃっていた事がありました。
彼らが本当に順風満帆で、センスひとつで僕らに寄り添えてしまったのか、或いは本当は闇を抱えていたのかは分かりません。
ただ、この時僕は彼らの歌詞は白黒だったんだなと思いました。
「形だけすごいものができていて、それは確かに僕らに寄り添ったものだけど、その人は実はそう思ってなさそうだ。」
この気付きは、それまでその作品を細部にまで気遣いのあるカラフルな作品だと思っていた僕に、一気にこれは白黒だったんだと思わせる力がありました。細部まで気遣いという名のカラー配置をしてるかと思ったら、全部センスだったように見えてしまったのです。
その瞬間に彼らが出したかった色はもう僕には伝わらなくなってしまいました。なぜなら人がある想像するとき、どんな色をみい出すかはその人の経験や立場次第だからです。これは表現者か受け手か、どちらが主体の言葉なのかを問いません。依然あの歌詞をカラフルだと思う人がいれば、白黒だと思う人もいる。彼らはぐちゃぐちゃの感情かもしれないし、何も考えていないかもしれない、真実は1つしかないけれど、前者だと思って歌を聞く人と後者だと思って歌を聞く人がいる。当然、それ以外の人だっているわけです。人の数だけそれは存在するのです。
それらに基づいて「結論」というこれまた多様なタイトル付けが行われ、ここにもカラフルな世界が存在する。そんな多層な構造こそ、現代の我々の住む1つの社会の在り方だと思います。だから僕みたいな人間が増えたとしても、社会からすれば、この世に1人あの歌詞を素敵な白黒イラストだと思い、「落胆」というタイトルをつけた人間が増えただけのことなのです。
ただ、物事をこう考えたとき先程の質問の自殺の回答にも同じことが言えるというのは大きいです。上で述べましたが、自殺という事象が起きたとき、人によって色々な考えが出てくると思います。質問に対する回答とこれは同じで、瞬間に自殺を感じている人、一度でも本気でそれを感じたことがある人、感じても克服した人、全く感じたことがない人…。津々浦々の人々がさまざまな情景を思い浮かべます。多層な社会なため、人によって見える色が違うのです。
故に、その行為で亡くなった人に対して色々な意見が出ます。気持ちを推し測る人、嘲笑う人、追悼する人、家族として辛い人…、それぞれがそれぞれの意見を言う、これまでの話から見てもそりゃそうですね。
その死において、傷を負う人たちは彼等に近い人たちです。だから、その死については本人とその家族や仲間の気持ちを汲むことと、できる限り望みに沿って事態を収束させることに尽きます。
その後長期にわたり、社会が本当に考えられなければならないのは実際にそうした行為の予備軍となっている方々になにができるかを本気で考えることです。例えば先の質問に重い気持ちを得た人たちです。本当に苦しいなかで生きている人はたくさんいます。子供であろうと大人であろうと、その苦しいという気持ちに年齢は関係なく、そこに青さはありません。彼らが彼らの筆で描いた真実の作品なのです。
僕自身、生きろと言われても、相談と言われても、何をされても全く死にたいという時期はありました。誰かにかけられた白黒のペンキは、僕の白黒の乱雑な作品には全く影響しませんでした。彼らの優しい言葉を白黒だと思ってしまい、何をされても変わらず死にたいと思っていたのです。今でもそれはあまり変わらないのですが、僕の例だけでなく、何なら僕よりもっと苦しい人はたくさんいます。本当にたくさんの方が、漠然とした苦しみのなかでもがいています。
あなたにももしかしたらいつか、この多層な社会に絶望の色しか見えない時が来るかもしれません。そして、自らのキャンパスをも全て白黒に見え、そこへかけられる言葉の雨が全部白黒のインクに見えるときもくるかもしれません。それは誰にも止められず、また誰しもが誰かの原因になる可能性があります。でもそれは気にしても仕方がないことです。ただ、知らなかったのであれば、心のどこかにとどめることをオススメします。
そうなったとき、社会はどうすべきか。僕はそこに答えはないと思っています。考えるべきといっておきながらこれはなげやりじゃないか?と思うかもしれませんが、加害者がいるのか、それとも社会の制度なのか、漠然としたものなのか、結局、多層な社会においては可能性はたくさんあり、それぞれ個別にとなるとここでは書ききれません。すべきことはケースによって無限にあります。だから、早い対策の必要があります。政府と民間の団体の方々には頑張ってほしいです。
ただ、僕はひとつだけこれを読んだ人に伝えたいことがあります。それは、苦しい状況にあるときにそれを真に救うことができるのは自分だけなんだということです。これは突き放すわけではありません。僕が本当に死のうと思っていたとき、全ての言葉が白黒に見えたということがここでいう真に自分を救えるのは自分だけなんだという言葉の意味です。
本当に辛いとき、自分の命に結論を出せるのは自分だけです。寄り添う誰かも言葉も何も響かない状況であれば、特にそれが漠然とした原因によるものだと最早それを他人が救うことはできません。だからそういう状況の時に誰かに相談するときは、前提として救いを期待してはいけません。期待しすぎると反動がデカいです。
漠然とした死への想いを持っている人は、相談するときは救われようではなく自分を見てもらおうとしてみましょう。これまでの足跡を話しましょう。あなたのキャンパスが何故白黒になってしまったのかを相手に話せれば、相手もまたあなたの白黒のキャンパスが見えます。そうすれば、かける言葉も変わるでしょう。
でも、これを黙って聞いてくれる人はそういないですし、うまく話せる保障もありません。そして、僕もそうですがそれをしても救われはしません。ただ、貴方という作品の理解者が増えるだけです。だから、死に救いがあるとすれば、それを選ぶこともあるでしょう。それを本当に止められるのはあなただけで、あなたが止められなくなればあとはなるようにしかなりません。
漠然とした死への想いをもつようになったとき、それでも死にたくはないと少しでも思えたら、できる対症療法は少ないですがこれは調べると結構出てくるので、片っ端からやってみることをオススメします。それでもダメなら勇気を出して病院で問診をしてもらうこと、本当に信頼できる人に話してみることをやってみるだけやってみましょう。それでもダメなときは僕のノートになんかつらつら書いてもいいです。死にたいもの同士なんでも話してみましょう。
具体的に理由があるなら、これはもう出るとこに出ましょう。いじめが原因なら誰でも告発しましょう、親が原因なら友達の親や公的機関、NPO法人に行きましょう。労働が原因ならちょっとでも証拠揃えて弁護士の無料相談や労基署に行きましょう。原因を作ってるヤツにやるだけやって死んでやりましょう。僕は、精神的にどん底でしたが、会社の上司にやるだけやって辞めました。こんな経験してるので、何なら僕でも仕事やめた報告してるYouTuberでも誰でも、できることはなんでもアドバイスしてくれるのでそこに言いましょう。その際、相手は選ぶ必要がありますが。
最後に、自分を救えるのは自分だけだとして、もし周囲に辛そうな人がいたときどうしたらいいとは言えません。言葉だけではその人は救われないでしょう。けれど、行動をするにしては労力がかかりすぎる。そういうことはあると思います。この方法論に正解はありません。これまでに言ってきましたが、人の数だけ経験と感性と瞬間瞬間の辛さは違います。だから、ステレオタイプにこうだとは言えません。なので、一例として僕はこれをやったことだけ言います。僕は周囲にそういう辛い兆候のある人が現れたら、必ず相手の好きなところと頑張ってるところを余すことなく伝えるようにしています。「それで救われるから」なんて思いません。僕自身、言葉では救われないとわかっていますから。だから、僕はその人が死ぬ前に死んだら言おうと思うことを伝えています。「大好きなところ、ムッとするところ、君がいたから俺はこう思えたよ。ありがとう。もし本当に辛くて死んだとしても俺はお前の親友だから、年に一回墓参りに行かせてくれ。そうなったとしたら、ごめんねとだけ言わせてね。」とだけ伝えています。ただ、自分が思い残すことのないようにやってる気持ち悪い自己満足ですが、その人らは変わらず僕に接してくれているので、ギリギリキモいと思われたくらいで僕は助かってるのかもしれません。
こんなことしてる僕なので偉そうなことは言えませんが、唯一、辛そうな人がいる時はこれだけはやっておけということを言います。それはありきたりですが、その人とその瞬間にやりたい思ってることと、死んだらかけようと思ってる言葉をかけることだけは先にやっとくことはできるかもしれないということです。死んでからはもうできませんので。
長い駄文でしたが読んでいただきありがとうございました。