そして私は50歳で新入社員になった
25年前。私が転職したのは、従業員数100名ほどの測量会社だった。
インフラ関連の大きなグループ企業の関連会社。100名と言っても北海道内の支店で働く仲間も含めてのことで、同じ職場で毎日顔を合わせるのは20名ほど。
少人数ゆえに、一人一人の担当業務は多かった。グループ本社に気を遣うことも多いその仕事内容には、ストレスを感じることも無いわけではなかった。
けれど、忙しいながらも笑顔の絶えない職場だった。
関連会社を定年退職してから転職してきた嘱託社員も多く、どこかのんびりとした雰囲気もあった。札幌の本社と北海道内の各支店との連携も良く、会えば、いつも和気藹々。
和やかで、明るい職場だった。
その会社は、今は無い。
グループ本社の組織改革に伴う「分割合併」という形で、会社は無くなった。
吸収合併による社員の解雇は、無かった。けれど、共に働いていた仲間が全員同じ会社に移籍するのではなく、担当していた仕事ごとにグループ各社に分かれて転籍することになった。
「この合併は、我々の望んだものではありません。」
4月1日。大きなビルの最上階にある会議室。代表取締役だというその男は年度初めの訓示でそう言い放った。
合併前から従業員数は1,000名を超えていた。同じグループの会社とはいえ利益率の低い中小企業を押し付けられ迷惑とでも言いたかったのだろうか。
今思えば、あの訓示は合併社員など差別しても良いとの大号令だったのだろう。
合併の翌年、私は合併後の本社に異動になった。
その会社では、私が吸収合併を経て入社する数年前にも、吸収合併が繰り返されていた。
同じ部署にいても担当業務を持たぬ社員達が、終業のベルとともに帰ってゆく。そんな中、最終の地下鉄ギリギリまで残業しても終わらないほどの仕事を与えられているものの多くが、私がかつていた会社との合併前に吸収合併された会社からの転籍社員だった。
私も、そんな転籍社員の一人になった。
本社に移ってからも担当業務の変更や異動はあったが、私が最も長く担当したのが、福利厚生と衛生管理全般だった。
その会社には、メンタルヘルス不調を訴える社員も多かった。
インフラ業界故の責任の重さ。長時間労働。さらに、度重なる合併に伴う社内の人間関係の軋轢。さもありなん、との言葉しか浮かばぬ状況。
けれど、そんな状況を改善すべく契約された社外のメンタルヘルス相談窓口を利用する者は、ほとんど居なかった。
「知ってる?あのカウンセラー、退任した〇〇常務の愛人なのよ。」
ある女性社員が残業中の私のもとに近づいてきてそう告げたのは、私が本社に異動し衛生管理を担当するようになって、半年ほど経った頃のことだった。
その女性社員は、仕事もせずにいつまでも会社に居残り残業代をせしめていると陰口を叩かれていた問題人物だった。被害妄想が強く、虚言癖があるとも言われていた。
しかし、噂の真偽がどうであれ、そんな噂がある時点でその外部カウンセラーが社内で有効に機能していないことは明白だった。
彼女の言葉は聞き流しつつも、私は外部の様々なカウンセラー協会について調べるようになった。産業カウンセラー団体との繋がりも出来た。
新たなカウンセラーを。
メンタルヘルス対応窓口の改善を。
けれど、私が提案した改善策は、ことごとく却下された。
「あのカウンセラーと契約したのは〇〇常務だから、契約破棄は出来ないんだよ」
担当次長はそう言った。
噂の真偽は、問うまでもなかった。
それでも、仕事は好きだった。
福利厚生の担当業務を通して、訪れたことの無い街の支店や営業所の社員とも交流が出来た。直接顔を合わせることは無くとも親しく話せる仲間が増えた。衛生管理者の資格を得てからは、仕事を通して学ぶことも多く、やりがいも感じるようになっていった。
けれど、やはり、良いことばかりではなかった。
いろいろなことがあった。その多くは、こうした社名を伏せてのエッセイであっても、いろいろ、としか言えないことだった。
悩んだ末、私は上司との定期的な面談の際に、異動を希望する旨を伝えた。
「退職」という選択肢は、当時の私の中には無かった。不況の時代。勝手な吸収合併に振り回された挙句、無職になるなんて冗談じゃないと思った。
けれど、このままここにいるのは無理だ、とも思った。
このままでは、自分自身がメンタル不調に陥るだろう。
それは、予想ではなく確信だった。
数か月後。
会社は、私が持つ衛生管理者の資格を生かして欲しい、と、道東の大きな支店への異動を内々に伝えてきた。
しかし、実際に正式な内示の日に告げられたのは、それとは別のオホーツク海側の街の小さな支店だった。
50名以下のその支店には、労働安全衛生法に定める衛生管理者の配置は不要だった。
私が持っていた第一種衛生管理者という国家資格は、意味のないものになった。
異動後、私がそれまで担当していた業務は3人の社員が分担して担当することになったらしい。
私が3人分の仕事をしていたのか、引き継いだ3人が半人前以下の仕事しか出来ない人間だったのか。真相は定かではない。
ただ、正常な業務分担で無かったのは事実なのだろうと思う。
3人はいずれも、合併社員ではなく、新卒からその会社に入っていた社員達だった。
けれど、転勤後の職場とその街での暮らしは、私に合っていた。
異動した初年度のF課長は、仕事には厳しいながらも気さくで人間味のある人だった。
私と同じく札幌の本社からその街の支店に異動してきたというF課長は、単身赴任4年目を迎えていた。
「札幌からもうちょっと近かったらいいけど。単身赴任には、ここは遠すぎるって。もうツライよ。」
そんな愚痴をこぼし続けてはいたものの、街の悪口めいたことは口にしない人だった。何より、本社にいたような、合併により転籍してきた社員と合併前からの社員とを隔てるような態度や発言を全くしない人だった。おかげで私も、余計なストレスを感じることなく仕事に向き合うことが出来た。
札幌の本社にいた頃のような、異常な残業は無くなった。それに伴い収入は減ったが、地方都市ならではの格安の家賃に加えて転勤者への住宅費用補助が充実していたこともあり、経済的にはむしろゆとりが出来た。
自然豊かな街だった。けれど、生活に困らない程度には商店も充実していた。特急列車が停車するJR駅もあり、車で1時間足らずのところには空港もある。妻子の暮らす自宅が札幌にある上司には辛い距離だったろうが、盆暮れ正月に札幌の実家に帰省する程度の私にとってはさほど苦になる距離でもなく、むしろ職場からマイカーで気軽に空港に出かけられるのはプライベートの旅行には便利。
私は、札幌にいた時よりも、充実した日々を過ごすようになった。
この街に来て良かった。そう思うようになるまでに、さほど時間はかからなかった。
しかし、お世話になったF課長が自宅のある札幌に栄転した後、後任としてYが配属されたことで、職場の雰囲気は激変した。
「オレ、合併で来た連中なんて社員と見做さないから!」
3月下旬、着任前の引継ぎでその支店を訪れたYは、私に面と向かってそう言った。
着任したその日から、Yは本社や他支店の親しい社員に社内電話をかけ、人事異動への恨みつらみを大声で訴えるようになった。
書類の確認と押印を依頼しても見ようともしない。
それでいて、本社からの出張で誰かが来ると率先して飲み会をセッティングし、終業時刻のはるか前に退社して飲みに出掛けていく。
私を含む合併社員への暴言は日常茶飯事。
地元出身の社員たちには、こんなド田舎によく住めるな可哀想にと面と向かって言う。
子を持たぬ既婚社員へは、半人前だな早く子作りしろと執拗に繰り返す。
そうした発言がハラスメントであるとの自覚は、Yには全く無かった。
あまりに度を越した発言に、Yと親しかった社員がさすがにそれはセクハラだろうと注意したことがある。しかし、Yは子供のようにふくれっ面になった。
「どうしてそんなイジワル言うの?
ボク、親切で言ってあげてるのに。
いまどき、こんなこと親切に言ってあげるの俺くらいだよ?
感謝しなよ??」
還暦間近のYは、頬をふくらませながら、真顔でそう言った。
Yは、北海道外の私立大学卒だった。
さほど偏差値の高い大学ではなかった。しかし、事あるごとに俺は大卒だと自慢し、現場を担当する社員達を蔑視するような発言を連発していた。
そんな、学歴を誇示するYだったが、仕事は全く出来なかった。
本社で何をしていたのかと呆れるほどに、社内の承認行為やシステム入力の基礎知識すら皆無だった。
「俺、〇〇常務のお気に入りだもん。あの人に課長にしてもらったんだもーん。」
それがYの口癖だった。
自分自身に能力が無いことを理解した上での自虐発言かと思いきや、むしろ自分の後ろには役員がいるのだという脅しのつもりらしかった。
能力皆無なのにプライドが高く、無自覚なハラスメントを繰り返すヒステリックな差別主義者。
ここまで酷いキャラクターは、どんな三文芝居でも無いであろう。そんな人物設定をすれば、リアリティが無いと言われそうなものだ。
これがフィクションならば、どんなに良いかと思う。
しかし、Yは実在の人物だった。
病弱だった幼い頃が嘘のように元気に過ごしていた私だったが、Yが着任して以降、体調が悪化した。
疲れがたまると貧血でふらつくのが日常になった。
もともと血圧が低く貧血気味ではあったのだが、Yが着任した翌年の健康診断で私の赤血球の値は、普通に歩けているのが不思議なレベルだと医師に叱られるほどになっていた。
翌年の定期健康診断の二次検査の結果、婦人科疾患が見つかった私は、子宮を全摘出することになった。
私が入院と手術のため一ヶ月間の休職に入る前日、Yは笑顔で言った。
「ちゃんと〇〇君に全部引継ぎしたんだよね?安心して、ずーっと休んでね」
○○君、というのはその年に入社したばかりの新入社員で、Yのお気に入りだった。ずーっと、に力を込めて言うその顔は、職場から私がいなくなるのが嬉しくてたまらないといった風だった。
「あの人、アベさんが休職した次の日に僕に「俺、仕事のこと何も分からないからよろしく」って言ったんですよ」
復職後、新入社員からはそう聞かされた。彼もまた、Yの正体を見抜いていた。
Yがその支店にいたのは、4年2か月もの間だった。
やっとYがいなくなり、後任として本社から配属されたのは、本社の中でも優秀なことで知られていた人物だった。
職場の雰囲気が変わった。
職場内に笑顔が増えた。親睦行事の参加者が増えた。
このまま、この支店で働き続けられるならば、60歳までここで頑張れるだろうか。
そう思いはじめた時、パンデミックが街を襲った。
パンデミックが始まってから赴任してきた支店長は、従業員の健康や職場の安全よりも、遠く離れた街にある本社から地方支店へ飲み会目的にやってくる役員への接待を最優先にするような人だった。
地方の支店勤務が嫌だったのか、支店内でコミュニケーションを図ることよりも、本店からの役員の接待飲み会にばかり積極的だった。支店の社員達には外食を控えるようにと言いながら、自分自身は札幌から役員を招いての宴会をせっせとセッティングしていた。
パンデミックの真っただ中に。
感染により死者が出ていた街で。
その様子を諫め、感染予防を呼びかける私は、彼にとって鬱陶しい部下だったのだろう。
「アベさん、子供がいないから分からないんだよ!」
その年に配属された新入社員への指導について相談した際、支店長はゲラゲラと笑いながらそう言った。
その新入社員は、国公立大学卒だった。しかし、コミュニケーション能力の欠如は目に余るものがあった。
無表情。
毎朝誰にも挨拶せず席に着き、退社の際も無言。声を掛けられれば返事はするが、自分から挨拶をしない。毎朝無言で事務所に入ってきては上着と鞄を床に投げ捨て、仕事の間違いを指摘されると無言のまま席を立ち、そのまま帰宅する。
彼は、どんなに指導されても書類のファイリングが出来なかった。ファイリング以前に、書類を束ねる・揃えるということが出来なかった。複数枚の書類を束ねてトントンと揃えることが全く出来ない。紙の角を揃えて折ることも出来ない。幼児に折り紙を教えるように丁寧に教えても、教えたつぎの瞬間には全く覚えていないかのように斜めに折ってそのままぐしゃりとファイルに挟み込む
重要書類が何枚も紛失した。日が経つにつれ、彼に任せられる仕事は増えるどころか無くなっていった。
どんなに声を掛け、話を聞こうとし、指導を繰り返しても、彼の態度が改善されることは無かった。
これは、業務指導で改善出来るものでは無いのでは、と思った。
私は当時の上司とも相談の上、新入社員に対する専門医の面談を支店長に打診した。
「子供がいないから分からない」と言われたのは、その時だった。
「アベさん、子供がいないから分からないんだよ!
今の若い子なんてそんなもんだよ!教えても言うことなんか聞かないし。
うちの娘も片付けが下手で下手でさぁ。脱いだものを床に置くのも同じ!おーんなじ!部屋なんて、まー酷いもんだよ!」
不自然なほどの明るさと大声で、支店長はしゃべり続けた。
私が言葉を挟もうとすればするほど、それを拒絶するかのように大袈裟に笑い、私を罵倒するごとく大声で話し続けた。
あの時、専門医か、せめて産業医による面談でもあれば、あの新入社員はその適正にあった業務を行う部署で働き続けることが出来たのではないか。
そう思う一方で、面談等を受けさせなかったという事実があの会社の全てだったのでは、とも思う。
新入社員は、数ヶ月後に退職した。
そして、2021年春、私は会社を辞めた。
合併される前の在籍期間を含めれば、20年以上正社員として働き続けた会社。それを50歳目前で退職した私は今、生まれ育った土地から遠く離れた街で、それまで全く縁の無かった仕事に就いている。
不安は、あった。
けれど、退職して良かったと今振り返っても思う。
結果的に大企業から中小企業へ転職することになったが、生活に支障をきたすほどに収入が下がることは無かった。事務職から技術職へと職種は変わり、新たな資格取得にも苦労したが、おかげでやりがいのある仕事についている。
振り返れば、代表取締役が合併社員への差別を呼びかけたあの日、すべての答えは見えていたのかもしれない。あの日、即座に見切りをつけて別の道を選んでいれば、その後の人生はまた違ったものになっていたかもしれない。
けれど、たらればの話をしても仕方がない。
様々な経験を経て、今の自分があるのだから。
何より、今の私は、幸せだ。
我慢が大切な時はある。辛抱すれば報われることもある。
けれど、我慢を長く続けて自分自身の健康を害する必要は無い。
辛抱は、報われないときもある。
自分を大切にしてくれない人や場所のために、自分を犠牲にする必要は無い。
私は、私の決断を誇りに思う。
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