育児日記(9/5~9/11)
ただいまnote! 丸1年ぶりの投稿!ご無沙汰してます!前回の記事がちょうど1年前に書いた【育児日記(9/6~9/12)】。さらにその前の記事は、今から2年前の【育児日記(9/7~9/13)】。年1でnoteに現れては育児を記録する男になりつつありますが、9月の初週に育児日記を書く流れになってるので勿論!今年も書きますよ!娘、2歳になってますよ!絶賛イヤイヤ期ですよ!それではスタート!
9月5日(月)
ここ最近、娘の言葉の発達がめまぐるしい。あれよあれよという間に新しい言葉を覚え、覚えた言葉を正しいセンテンスで使いこなすものだから驚くばかり。最近だと「〜だから、〜だねえ」という構文を使いこなせるようになり「アタシがママの椅子に座ってたから、ママは座れなかったねぇ」とか「(足)ベトベトしてるから、(靴)履けないねぇ」というように原因と結果を説明できるようになってきている。
2歳になると発達や成長の差が少しづつ顕在化してきて、保育園の周りの子と比べると、娘は言葉を覚えるのは早いけど、体格はやや小さめで、オムツが外れるのはやや遅れている印象だ。他の子と比較して、喜んだり不安に思ったりすることはないけれど、娘が日々少しづつ成長しているプロセスは、できるだけ見逃さずに一緒になって喜んでいきたいと思っている。
できるだけ、と書いたが、これが2年前の自分なら"一瞬たりとも見逃さずに"と鼻息荒く書いていただろう。そのくらい、親は子供の成長をずっと見ていられるものだと思っていた。実際、育休をとって0歳の娘を四六時中見ているような生活だった。寝返りができた、つかまり立ちができるようになった、パパと言った、抱っこ〜と言えるようになった、など娘が新しくできるようになること、覚えること一つ一つに気が付くことができた。
しかし、2年経った今は、娘の成長は日常のあらゆる所に散りばめられていて、そのひとつひとつをすくい取ることは到底できないことに気付いている。「いつ覚えたん?」「いつからそれできるようになったん?」なんてことはしばしば。僕たち夫婦が教えてもいない言葉や歌や行動を、保育園でいつの間にか身につけていることも多い。娘の成長の全てを目撃することはできない、そんな諦観の中で、できるだけ、できるだけ見逃さないようにしようと、娘と過ごす時間を大切にしている。
9月6日(火)
あんなに騒々しかった蝉の声もいつしか聞こえなくなり、朝はだいぶ過ごしやすくなっている。春と秋、暑すぎず寒すぎないこの時期は、起床後、娘と散歩に出かけることが多い。涼しくなってきたので、数日前から朝の散歩を再開。娘はこれまで以上に散歩中に遭遇する犬に興味を示すようになっていた。散歩をしていなかった夏の間に、好奇心やモノゴトに対する認知の解像度が上がっているのだろう。昨年の育児日記9月9日分にも書いた、散歩中に会うチワワのプリンちゃんに会うのを、今日も楽しみにしていた。
起床してオムツを替え終えると「プリンちゃん見に行く〜!」といって「行こう行こう!おいでおいで〜」と飛び跳ねていた。「プリンちゃんいるかな〜」と口にしながら家の近くをしばらく歩いていると、遠くにプチンちゃんが現れた。娘は喜々として駆け寄って行き、プリンちゃんの前に立ちはだかる。でも、人見知りならぬ犬見知りを発揮して、もじもじしていた。飼い主のおじさんが触っていいよ〜と優しく声をけけてくれたけど、触れることはできなかった。
プリンちゃんと別れたあとの帰り道、娘は「恥ずかしかった〜」と教えてくれた。
9月7日(水)
昨日、プリンちゃんを触ることができなかったのが少し引っかかっている様子だったので、今朝は散歩に出る際「プリンちゃんヨシヨシできるといいねぇ」と遠回しに触ってみることを勧めた。娘は「一緒にヨシヨシする〜」といって僕と一緒なら触りたいというようなことを伝えてきた。
外へ出てプリンちゃんを見つけると、相変わらず脇目も振らず駆け寄っていき、案の定プリンちゃんの前で硬直した。どんな感情なのかわからないけど、おそらく、触りたいけど怖い、というアンビバレントな思いが拮抗して、どうしていいか解らなくなるのだろう。娘に近づいて一緒にさわってみようと声をかけた。娘は、まんざらでもない様子で頷き、恐る恐る手を伸ばし、プリンちゃんの頭に触れた。娘の硬かった表情に笑みが浮かんだ。笑みというか、結構なニヤニヤだった。
夕方、保育園から帰ってきたあと近くの広場へ遊びに行き、二人でカラスを追いかけて過ごした。そういえば、2ヶ月ほど前、この広場で娘と鳩を追いかけていた際、あまりに熱が入りすぎて全力疾走していたら、右のハムストリングの肉離れを起こした。あまりにダサすぎる。今日は同じ失態を繰り返さぬよう、6割くらいの力でカラスを追いかけた。
9月8日(木)
「今日は誰とお風呂に入る?」という質問をすると「パパ〜!」と最近は答えてくれる。娘は一緒にお風呂に入る相手を、半月くらいの周期でローテーションさせている。「パパ〜!」と答える時期が過ぎると、しばらく「ママ〜!」と答える期間が続く。この「お風呂誰と入るか」の指名は絶対であり、こちら都合で勝手に変えては、ギャン泣きされるのでご法度だ。
娘は昨年の秋頃から、突然湯船に浸かるのを嫌がるようになり、冬の間もシャワーオンリーで乗り切っていた。冬場の浴室は寒いので、一通り身体を洗うと、僕は一目散にお湯に浸かる。けれども娘は頑なに入浴を拒んで床で遊び続けた。別に無理矢理風呂に浸からせることもないので、僕は温かいお湯に浸かりながら、横で遊ぶ娘を呑気に眺めていたのだが、ある時から「パパもこっち!」と言って、お湯から出て一緒に床の方で遊ぶことを強要されるようになった。しかも、娘の遊びというのが、蛇口から出るお湯をバケツに汲み、一定量溜まったら捨てるということをエンドレスで繰り返すもの。ゆえにシャワーは使えないし、とにかく寒い。苦痛だ。
そこで今年は、昨冬の二の舞にならぬよう先手を打った。浴槽の苦手意識を払拭すべく、7月頃から朝や夕方に浴槽に水を貯めて水遊びする機会をつくった。水が浅く入ったバスタブにはすんなりと入ってくれた。加えて、休日は家庭用ビニールプールで水遊び。保育園でも毎日プールがあった。温水プールにも連れて行った。浴槽の抵抗をなくしつつ、着々と「プールは楽しい」という洗脳を続けたところで、先週。「だれとお風呂はいる?」「パパ〜!」「お風呂でプールしてみる?」「うん!」成功だ。プールと湯船をすり替える術。
プールは楽しいと刷り込んだ甲斐あり、約1年ぶりに湯船に浸かってくれるようになった(娘は湯船のことをプールと呼んでいるが)お陰で今年は、浴室で寒さに耐えながら遊ぶことは回避できそうな気がする。
湯船に浸かるようになった娘は、お風呂で遊ぶのがよっぽど楽しいようで、お湯の中で歩いてみたりジャンプしてみたり、人形を泳がせてみたり。今日も茹でダコになるまで遊んでいた。しかしここで、新たな攻防の戦の気配を感じている。ここ数日ほどこんなやり取りが続いているのだ。
「そろそろお風呂上がろ?」「イヤ!」
「もうお顔真っ赤っかだよ」「イヤ!」
「さすがにパパ熱くてあがりたいわ…」「イヤ!」
一難去ってまた一難。今度は熱くてたまらん。
9月9日(金)
保育園への送り迎えは、電動アシスト自転車を使っている。今年の夏の初め頃まで抱っこで往復してたけど、娘が重たくなったことと、暑さに耐えられなくなったこと、娘と一緒に歩くとエラく時間がかかることから電動アシスト自転車を導入。新品で購入するとだいたい15万円程度が相場。色々探した結果、ジモティーというフリマアプリで同じ市内に住む方から5年落ちの綺麗なものを5万円で入手した。
このことを実家の両親に話したところ、母から自転車は自分で漕がんかいと、なにかズルいことをしているような雰囲気で言われたのを覚えている。恐らくそれは、実家の周辺で電動アシスト自転車を使っている人がほとんどいないからだろう。実際、実家の宮崎は車社会で、自転車で子供の送り迎えをする家庭はどちらかというと少数派かもしれない。しかも道路は広く、盆地で走りやすい地域だから、わざわざ電動アシスト課金をする必要がない。しかし、ここは京都市内。今住んでいる地域は道が狭く、人の横を車がスレスレで走り、坂道が多い。したがって、多くの子連れが電動アシスト自転車で移動している。自転車利用者の8割くらいが電動アシストではないだろうか。
今日も自転車にヒラリとまたがり、後ろに娘を乗せ、颯爽とアシストされながら保育園へ送っていった。保育園に着くまでの間、娘は後ろで「きらきら星」を大声で歌うのが習慣になっている。荒削りだけど生き生きとした娘の「きらきら星」を聴きながら保育園へ向かう時間は、あとにはとっておけない今だけの貴重なものだ。もう少し時間が経つと、今ほどの無邪気さはなくなるだろうし、あるいは恥ずかしくて歌わなくなるかもしれない。だから今しか聴くことのできない、荒削りなきらきら星。僕は噛みしめるように聴くことにしている。
映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の中でヒロシが人生を振り返る回想シーンがある。涙腺崩壊の名シーンだ。幼いひろしが田舎道を父親と自転車に乗っていた子供時代から始まり、初恋や上京、仕事での失敗、みさえとの出会い、しんのすけの誕生を経て、最後は野原一家が自転車に乗る映像が流れるモンタージュ。ぼくは思うのだが、あれはもはや、死ぬときに見る走馬灯に近い気がしている。で、ぼくが死ぬときに見る走馬灯は、あのヒロシの回想みたいな感じにして欲しいと思っている。何が言いたいのかというと、僕の走馬灯にも自転車のシーンを追加したい。人生のフェーズごとで、幼少期に父母と自転車に乗り、いつしかひとりで乗れるようになり、小中高は歩いて友人たちと通学、大学は一人で自転車に乗り、留学中はホストファミリーのマウンテンバイクに乗った。社会人になって満員電車で通勤し、妻と結婚。一時期妻と会社が近かったので、一緒に朝の通勤をしたこともある。娘が誕生、抱っこで保育園へ送り、季節は流れて電動アシスト自転車に娘を乗せて自転車を漕いでいる。この一連の映像に、美しいBGMをつければ、感動的で、俺の人生よかったな〜と思って死ねる気がする。ここ最近の送り迎え、娘が本当に楽しそうでいい感じなので、ぜひ走馬灯のワンシーンに加えて欲しい(走馬灯って誰が編集するのか知らんけど)
9月10日(土)
妻と娘と、妻のお父さんと4人で京都競馬場横の緑の広場へ遊びに行った。広い芝生と大きな遊具があり遊びには困らない便利な場所。9月になり、そろそろ外で過ごしても快適なんじゃないかと踏んでいたけど、いやはや、まだまだ夏の暑さだった。油断ならない。ただ、人は少なかったので、娘はのびのびと遊んでいた。
ちなみに、京都競馬場の近くに、翼虎(ヨクコ)というコロッケ屋さんがある。100円程度で揚げたてのコロッケとかチキンカツが食べられて、メチャクチャ美味い。今日もお昼はそこで買って食べた。機会があればぜひ!
夜は中秋の名月を見た。毎晩、風呂上がりに、星を見るため短い散歩をするのがルーティンなので、娘にとってはあまり特別なことではないけど、お月さまにウサギが見える話をすると「どこにいる〜?」とまじまじと月を眺めていた。
9月11日(日)
壁のアナログ時計、卓上のデジタル時計、Apple Watch、iPhoneのロック画面、見た目は全く違えど、それら全てが時計だということを娘は理解しているようだ。最近「時計」を知覚できるようになり、家の中の時計と思わしきものは一通り指差して「時計?」と確認していた。感心したのは、アナログもデジタルもどちらも時計と認識していることで、時計を見て「何時?」と訊いてくることもある。時計がどんな機能を持っているのか、ある程度理解しているのだろう。このあいだピーターパンの本の中でビッグベンを見つけたときも「時計?」と訊いてきたので、なかなか柔軟に時計を把握してるじゃないかと思った。
娘はいま1から10まで数えることができて、数字の「1」だけは文字をみて「イチ」と言える。寝る時間は「8時」ということも覚えている。近ごろ数字に触れる機会が増えてきたので、100円ショップで玩具の時計を買ってきた。数字や時間を覚えるきっかけになるといいなと思ったからだ。
娘はこの時計にいたく興味を示してくれて、オモチャの優先順位のトップに位置付けてくれた様子。リビングのテーブルの上にどんと置き、数ある玩具の中から優先的にこれで遊んでいた。さしづめ、数字のパズルが面白い、といった調子だけど、時計の針を動かして「8時」とか「9時」と言っているので、一応時計らしい使い方はしてくれいてる。
娘と一緒に遊びながら、ぼくが「時計があると時間がわかるね〜」的なことを言ったときだったと思う。娘がふと真剣にこんなことを訊いてきた。
「時間はどこ?」「時間はある?」「時間はない?」「時間はだれ?」
……。ぼくは答えに窮した。
これはあれだ。質問によって相手の無知を自覚させるソクラテスのやり口だ。知ったような面して時計を買い与えたけど、お前ちゃんと「時間」を説明できるのかと、そんなニュアンスを含んでいるように思えた。
これが食べ物や動物なら、絵や写真を見せて説明がつく。楽しい悲しいみたいな感情なら、大袈裟な身体表現をするし、熱い冷たい痛い痒いとかなら、娘の皮膚に刺激を与えて理解してもらえるかもしれない。でも「時間」がわからない人に「時間」が何かを説明するのは結構難しい。ぼくは娘に「時間はみんなある、でも見えない。だから時計を使う。8時とか9時ってのが時間」と答えたけど、なんか釈然としない。というか、自分でもこの説明だと腑に落ちない。
妻とこの話をしたところ、娘は時間の認知がまだぼんやりとしているのでないかという結論にいたった。確かに娘は「あとで」とか「あとから」みたいな表現はするが「さっき」「まえ」「明日」「昨日」のような言葉はまだ使わない。もう少し成長したら、時間の説明をしやすくなるかもしれないし、娘も感覚的に時間ってそういうことねと勝手に理解するかもしれない。
ともあれ、娘からの質問にこれほど苦戦したのは初めてだった。なかなか手強い相手だ。このところ、急激に言葉を獲得してく娘は「これなに〜?」というフレーズを日常的に多用する。先日は、ぼくの足にあった蚊に噛まれたあとを見て「これなに〜?」からはじまり「どうした〜?」「どこで〜?」「痛い〜?」「大丈夫〜?」と矢継ぎ早に質問してきた。それくらい好奇心が強くて、気になったことは深堀りする子だ。
もしかしたらこの先、娘からこんなことを訊かれることがあるかもしれない。「愛ってなに」「正義ってなに」「自由ってなに」「自分ってなに」「家族ってなに」「宗教ってなに」「幸福ってなに」「美しいってなに」
そんなとき、スパッと切れ味鋭く答えられたらカッコいいなと思うけど、そうでなくても、上手く答えられないなら一緒に疑問を持って、娘が調べる手助けができる親でありたいなと思う。ぼくは哲学者でも思想家でも研究者でもないけど、娘からの質問をはぐらかしたり、うやむやに答えることはしたくない。親だって、知らないことは知らないし、無知であることを自覚して、娘の成長するのに合わせて、自分も親として成長していきたいと思っている。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
久々に長い文章書いたら6000字超え(笑)これから時間をみつけてちょいちょい更新しようと思うので、引き続きよろしくおねがいしま〜す!
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