年始の宮中祭祀及びご公務
四方拝
1月1日(元日)の午前5時30分に、天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた仮屋(畳と屏風二双)の中に入り、伊勢神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼(庭上下御)した後、続いて四方の諸神祇を拝する。
この時に天皇が拝する神々・天皇陵は、伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代の各山陵(武蔵野、多摩、伏見桃山)、武蔵国一宮(氷川神社)、山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮(鹿島神宮)、下総国一宮(香取神宮)
歴史
平安時代初期、嵯峨天皇の治世(9世紀初め)に宮中で始まったとされている。儀式として定着したのは宇多天皇の時代(9世紀末)とされ、『宇多天皇御記』の寛平2年元旦(ユリウス暦890年1月25日)が四方拝が行われた最古の記録である
宮中祭祀において天皇が行う他の拝礼では、摂関や神祇伯が代拝することもあったが、四方拝は天皇本人の守護星や父母に対する拝礼であるため、代拝は行われなかった。江戸時代に白川雅喬が著した『家説略記』には、四方拝は守護星・祖廟を拝礼する儀式であると述べて神道儀礼であることを否定している(「非神祭」)ことから、四方拝が道教や陰陽道の下に成立した儀式であって、本来神道とは無関係な儀式であった可能性もある。
明治時代以前の四方拝の様子は、天皇は、まず始めに「嘱星御拝御座」に着座して、天皇の属星(ぞくしょう)(誕生年によって定まるという人間の運命を司る北斗七星のなかの星)に拝礼する。次に「四方御拝御座」に着座して天地四方の神霊に拝礼。最後に「山陵御拝御座」に着座して父母の天皇陵(父母が健在の場合には省略)などの方向を拝する。それぞれ、その年の国家・国民の安康、豊作などを祈った。
明治以後は、国学的観点から、道教の影響(北斗七星信仰や急々如律令などの呪文)は排除され、神道祭祀として再構成された上、国の行事として行われて四方節と呼ばれ、祝祭日の中の四大節の一つとされていた。
歳旦祭
歳旦祭(さいたんさい)は、戦前の祝祭日の中の皇室祭祀令に基づく小祭の一つ。現在では新暦1月1日(元日)に宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われる年始を祝う祭祀である。黄櫨染御袍姿の天皇が拝礼し、黄丹袍姿の皇太子が続いて拝礼する。
宮中三殿
賢所 皇祖神天照大御神を祀る。その御霊代である神鏡(八咫鏡の複製、実物は伊勢神宮の内宮に奉安)が奉斎されている。
皇霊殿 歴代天皇および皇族の霊を祀る。明治に再興された神祇官が附属の神殿を創建し、併せて歴代天皇の霊を祀った。
神殿 天神地祇を祀る。明治に再興された神祇官(のち神祇省)が附属の神殿を創建し、天神地祇および律令制での神祇官の八神殿の八神を祀った。明治5年、神祇省の祭祀は宮中に移され、八神殿は宮中に遷座し、八神を天神地祇に合祀して神殿と改称。
元始祭
現在では新暦1月3日、天皇が宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)においてみずから主宰する「親祭」であり、皇位の元始を祝ぐ儀式である。天皇陛下、皇后陛下、皇太子(皇嗣)殿下、皇太子(皇嗣)妃殿下の順に、賢所、皇霊殿、神殿の順に御礼拝。
元始祭は、1870年(明治3年)1月3日 (旧暦)、神祇官八神殿に八神・天神地祇・歴代の皇霊を鎮祭したのに始まる。1873年(明治6年)1月3日から現在の三殿親祭の形式となった。1908年(明治41年)9月19日制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定。1年で最初の大祭である。同法は1947年(昭和22年)5月2日に廃止されたが、1948年(昭和23年)以降も宮中では従来通りの元始祭が行われている。
年始のご公務
新年祝賀の儀
毎年1月1日,皇居において,天皇陛下が皇后陛下とご一緒に,皇嗣殿下をはじめ皇族方,衆・参両院の議長・副議長・議員,内閣総理大臣・国務大臣,最高裁判所長官・判事,その他の認証官,各省庁の事務次官など立法・行政・司法各機関の要人,都道府県の知事・議会議長,各国の外交使節団の長とそれぞれの配偶者から,新年の祝賀をお受けになる儀式です。国事行為たる儀式とされています。
一般参賀
毎年1月2日,皇居において,天皇皇后両陛下が国民から祝賀をお受けになる行事です。
天皇皇后両陛下が皇族方とご一緒に,随時宮殿の長和殿にお出ましになり,直接国民から祝賀をお受けになっています。その際,天皇陛下のお言葉があります。計五回。