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心の「逃げ場」を持つ者として

 最近は母の理想の住まい探しに付き合うのが嫌になり、弟は母のところにめったに来なくなりました。

 昨日も母がそのことを話していたので、適当に聞き流すか、今度、来てもらって話そうね、などと、その場しのぎの対応をした方がよかったのかもしれませんが、そこは弟の思いもわかると、弟の気持ちを推し量るかたちで、いかに母が理不尽なことを求めていたのかを、説明しました。

 母としては、子どもである以上、親の思いに応えて大事にするのが当然であり、それをしないなら訴えると息巻いていたので、世間ではそれを毒親というのだと心で思いながら、
弟にも家庭と生活があり、自分も然り、方々に訴えるのは構わないけど、聞いた人が母の思いに理解が得るとは限らないのでは、と話すと、そこで母の心の中の堤防が破堤したようで、内なる心を荒れ狂わせていた毒素を一気に浴びた感じです。

 毒素は、母の過去の記憶の改変の完成形であり、すべての記憶は自分の苦労の歴史、完璧な嫁を演じた自分の物語になっており、正義は自分にあり、現在の地獄は過去の自分の行いに比して理不尽である、そうした思いが毒素の泉となり、母を苦しめている感じです。

 子どもが親を見捨てることは、絶対に許されない、親に尽くして当然、という妄執は、自分が切り離される存在になっていることへの恐れの裏返しなのでしょう。

 もちろん、僕も弟も、母を見捨てる気持ちはありませんが、かといって、母の求めることに応えるのは大変な労力であり、毎日電話することさえ、毒を浴びる鬱陶しいイベントです。

 社会に出て、こうやって生活基盤を共にしていない僕でさえ、母との間合いには悩むわけですから、いわゆる、ヤングケアラーといわれる、生活能力の低下した、親の面倒を見る若い世代の人は、自分がまさに飛び立とうとする前に、親に翼を奪われたかたちにあり、その心の葛藤は、大変なものと思います。

 現状の自分を考えると、社会的にも多くのつながりがあり、情報を豊富に持ちアクセスするノウハウもあり、自分の現状を俯瞰することも、できるようになっているので、普段は八方ふさがりの母に比べれば、はるかに心の「逃げ場」があります。

 であれば、唯一の親であれば、受け止めるしかない。

 こんなこと、しょっちゅう書いていますが、それは、そうやって自分の心を躾けないと、怒りと愚痴の気持ちが心を蝕みかねない、弱い自分であることを自覚しているからであり、今日も払暁の光景を心に描き、父が亡くなって後、暗闇の中に取り残された母に夜明けが訪れるよう、微力を尽くしたいと思います。

 

 

 

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