心の中で生きている実感を味わう
何となく朝を二日ぶりに迎えた感じです。
一昨日の夜遅くに恐怖の電話がありました。
今時、夜遅くに電話があるというのは、少なくとも急ぎの用件であり、しかもかなりの確率で不幸な知らせです。
案の定、急ぎかつ、不幸な電話。
人間の本能か、日中、いやな予感はしていたんですよね。
この電話により、僕は裏返しの心の世界に自分自身を取り込まれてしまいました。
この心の世界では、僕は戦いを指揮して、難攻不落の攻城戦を指揮しています。現実は悲惨なはずですが、この戦いは自分と周りの仲間以外は、匿名の非生命体であり、ゲームの上での数の増減のような世界です。
この戦いは、途中の敵を撃破し、優位に戦いを進めていました。
戦いにおいて、こちらが押している局面では、その勢いをかって、押しまくって所期の目標を達成する、これが鉄則なわけですが、もともと守りに慣れた部隊であり、攻めることは得意としていない。兵糧も不足しており、僕自身も土地勘のない戦場であることから、このまま押し続ける自信がなく、「今日はここまで」という感じで、一度引き上げてしまいました。
それが失敗で、相手方には翌朝、大援軍が到着するとの情報。正直、その事態は想像を超えたもので、再び攻勢に転じるどころではなく、防御を固めて大軍を待ち受ける事態になり、昨日、ジェットコースターと表現したように、大攻勢を受けて、駆けずり回って防戦に追われる展開。
とはいえ、極限状態に身をおいて、すでに限界を振り切った体にムチ打ち駆けずり回ることは、一面で救いがたい高揚感をもたらします。
一緒に戦っている仲間が「生きてる実感がする」と漏らしましたが、たしかに、死地にあって生き残るためだけの戦いに身を投じることは、平場にあって、ふだんは当たり前のことと考える、人生の臨場感を、よりシャープに感じられるのだと思います。
そして極限の状況にあるこそ、研ぎ澄まされた感性から、戦場での同僚との魂の対話が生まれるし、そこからさらなる発想が生まれる、書き留める余裕はなくても、魂には感性の言葉が刻まれるので、ペンがなくてもかきおこしができる。
すべては心の世界での事象なんですが、現実世界の裏返しの世界。姿かたちは変われど、実は本質は、現実世界と同じです。
自分でも何を語っているのかよくわからなくなってきましたが、人間、極限の中では、夢と現実の区別は、意味をなさなくなるのかもしれません。