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いつかゆく道と思い寄り添う

 今日は、南海トラフの注意情報が出たこともあり、様子を見に母のところに行き、生活物資の買い出しほかフォローに行ってきました。

 食事を作る、部屋掃除をする、近所の買い物に出かける、医者に行くといった、日常生活の基本は営むことかできており、ニュースを見て、昨今の国内外の社会状況はある程度把握できており、認知症には至っていないのかなとは思うものの、
どこかに電話したことはメモに書き留めてあっても、何の用件で電話したのかを覚えておらず、それ以外にも、商品を注文した、代金を支払ったといった、主として通販の関係の記憶が抜け落ちており、複数の請求書や領収書の区別もつかなくなって、混乱している様子でした。

 その時々の判断、発言も、記憶に格納される段階で、都合良く改変されているようで、今のすまいは気に入らないからと、ではどこに住み替えるのか、サ高住に入るのかとった、大事なものごとを決めたり、進めたりするにも、ベースとなる母の判断が危ういので、
その意図を汲んて、正確にものを進めようとすると、過去の発言や記憶が抜け落ち、そこには何の責任も持たない母の、リアルタイムの思いとの齟齬が大きくなったりして、
真面目に対応した僕や弟も、疲れて怒りの心が出てきますし、それを母にぶつけても暖簾に腕押しで、母の認知を悪化させるだけなので、なかなかしんどいものだと思います。

 こっちもいろいろ忙しいので、いい加減にしてくれよという気持ちも沸き起こって来るのですが、
今や、僕にとっての「ハリ」の一つであり、ここがなくなる、すなわち、母の認知機能が低下して、記憶の整合どころか、日々の生活さえまともに送ることができなくなってしまうと、それはそれで、生活の一部が失われるようで、かえって居心地の悪さを感じてしまうようにも思います。

 また、自分もいずれは長生きすることになれば、人生の終盤において、認知機能が低下し、周囲に気を遣わせることになるかもしれません。

 母に寄り添い、フォローすることにより、僕自身、体力気力のあるうちに、自分のこれからの人生において、どこで何を確定させ、準備しておけば、周囲の負担にならないかについて、考えておきたいと思います。

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