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パブリックビューイング的な場888

 距離感を持ちつつ、なんとなくつながっている、そうした関係は、適度な孤独の解消に必要ではないか、母のことを見ていて、そうした場所がないかと探しているのですが、簡単には見つからないですね。

 確かに、人は知り合い、そこに相性が合えば、相手のことをより深く知りたいと思うようになります。それは当然の心理です。また、小集団においては、お互いの親交が深まること、これがなければ、いつまでも高校入学当初の、相手の出身校とか中学でやっていた部活を聞くような、探り合いのよそよそしい関係になり、まあ、そこで踏みとどまることは、できないと思います。
 あえて外界とシャットダウンすることで、つながりを深めないということもできなくはないですが、それは何か師について修行を積むような場でないと、やはりその場に居れなくなるはずです。

 とはいえ、つながりを深化させると、お互いの住まう世界の優劣のようなものが、どうしても見えてしまう。その場は楽しくても、人の輪を解いて離れ、知らず張っていた緊張の糸を緩めると、覆っていた心の幕がめくれ、幕間から、持たざる者に対する羨望の感情が自分の心の底に沈殿しているのが見えて、外を向いていた心が内面に向かい、凝視によりみじめさが増幅されることになります。

 おそらく、年末年始の孤独な人たちの集う場として最適なのは、マツダスタジアム(でなくても他球団でもよいですが)の、クライマックスシリーズを他の球場で開催している時の、パブリックビューイングのような場なのだろうなと思います。感動と興奮、時には残念な思いを程よく共有できるし、一人でもグループでも、周囲と和同できる。終われば、解いたひものように、共有した感情を自分の心に持ち帰り、一人暖炉にくべて、余韻を楽しむことができます。

 なんとなく、イメージができてきたので、あとは、リアルの場において、そうした場があればそれにこしたことはないですが、なければ、いくつかのハードルを越えて、実現させてみる、距離感を持ちつつ違和感なく和同できる、適度な広さと密度を保つ、集まり散じる場を、うまくかたちにできないものかと思います。

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