【夢小説 003】 夢壱位「能楽堂鍼灸治療院(3)」
浅見 杳太郎
そうして、物を掻き分け、頭上が崩れている処は屈みながら、先へ先へと進むと、少し開けた大部屋に出た。そこの土間は、まだ瓦礫やゴミなどで取り散らかってはいたが、一段高い畳張りの十畳くらいの和室まで行くと、新鮮な藺草の匂いが漂い、健やかな生活の香りがしてきた。
そこには、少し恰幅が良すぎるきらいはあるが、見るからに愛嬌のある一人の和装の女性が、営々と食事の支度に精を出していた。旦那の夕食の準備だろうか。丸い卓袱台の脇に、美味そうな湯気を立てる白米の入った半切桶を置き、そこに黄色いふりかけと酢をまぶして、一心に杓文字で掻き混ぜている。
ぼくは、急に空腹を感じた。屹度、この女性の旦那さんが医者に違いない。そして事のついでに一飯を恵んで貰えないだろうか。そう思って、ぼくは浅ましく喉を鳴らしながら、丁寧に挨拶をしてみた。
「御免下さい。奥さん、先生はいらっしゃいますか? ぼくはお医者様にかかりたいのですが」
そうすると、彼女は初めてぼくの存在に気が付いたようで、こちらに向き直り、居住いを正しながら云った。
「あら、どちら様かしら」
「どうも、勝手にお邪魔して失礼しました。ぼくは急患です。お医者様を探しているのです。旦那様はいつお戻りでしょうか」
ぼくは礼儀に気をつけて聞いてみた。すると彼女は、
「旦那様とは可笑しなことをおっしゃるのね。おほほ。わたくし、良人はおりませんの。お探しのお医者様は、ここを二階上がった処に御座いましてよ」
と、透き通るような優しい声で云った。
「は、それは失礼を」
ぼくは、自分の不躾を恐縮して、頭を下げて辞去しようとしたが、彼女は、ぼくの蒼ざめた顔を見て同情したのだろうか。
「貴方、疲れておいででしたら、ここで休んでいらしても構いませんよ。煩くしなければ、ご自由にどうぞお寛ぎ下さいな。あちらの部屋で赤ちゃんが寝ておりますので」
彼女は奥の襖の先に一瞥を呉れながら、笑ってそう云った。
ぼくは、足の裏が汚れていたので、畳部屋の端に、土間の方に足を放り出す格好で腰をかけさせて貰った。彼女も、それ以上勧めなかった。
「どうぞ」
と、静かに云って、椀に入れたご飯をそっとぼくの手元まで運んで来て呉れた。ぼくは、それを有り難く頂戴し、赤ちゃんを起こしては悪いと思って、小さい声でお礼を云って、暇を告げた。
ぼくは、彼女の云う通り、二階上を目指した。上への階段は、建物の外に付いた鉄製の無機質な螺旋階段で、容易に二階分昇れた。しかし、こんな山奥まで来たというのに、海が眼前に広がっているというのは不可解なことだった。よくよく見てみると、それは雲海であった。
戸板を開けて中に入ると、暗く索漠とした空間が広がっていた。少し行った処に、淡く幽玄に耀く高床の板張りの空間があった。確固たる領域を意識させる空間で、つまりは、能楽堂がそのまま建っていたのだった。
縦に敷かれた滑らかな床板が妖しい光を湛える本舞台に、その正面奥の松の鏡板。本舞台の周りには目を刺す清らかな白い石が敷き詰められていて、白州を成している。本舞台の四隅の柱の上には、堂々たる瓦屋根が乗っかっており、正面から見ると均衡の取れた八文字を描いていて、美しい。本舞台左奥からは橋掛りが斜めに伸びており、脇には一の松、二の松、三の松と可愛らしい松の三兄弟が興を添えている。
ぼくはすっかり興奮し、本舞台正面にある階近くまで進んで行った。すると、橋掛りから、さぁさぁさぁと衣擦れの音を響かせながら、本舞台の真ん中まで、重みを感じさせない滑らかさで進み出てきた一つの影があった。
それは、紅の装束を纏い、小面をつけた少女であった。少女ではあるが、これは死者だなと思った。
その小面がぼくに手招きをする。
ぼくは、抗い難い魅力を感じて、階を上がろうと思ったが、清らかな白州を踏んでも良いものか、ぼくみたいな門外漢が本舞台の床板を踏んでも良いものかと、我ながら怪しんだ。ぼくが、足を踏み出せないでいると、いいから来いと云わんばかりに、切れ長の目をした小面が再び静かに手招きをした。
ぼくは意を決して、白州の冷ややかな感触を足の裏に感じ、滑らかな階を踏みしめて、清らかな本舞台に上って行った。すると、小面が、まるで良人を迎い入れるように可憐な仕草で、ぼくの掌を細くて艶やかな指で握ってくるではないか。ぼくは、その時、形式だけではない、この小面の真実の含羞を感じた。
ぼくは、忽ち恋に落ちた。
すると、小面は、ぼくを見上げながらゆるりと正面左の柱を指差した。ぼくが目をやると、柱の辺りが俄かに明るくなり、そこに、上半身裸のずんぐりとした体躯を有した一人の男が正座をしていた。心なしか、小刻みに震えているようにも見える。
「本当に大丈夫なんだろうね?」
腹の肉が無様に弛んだその男は、ぼくに不躾に問うてきた。何が大丈夫なのか? ぼくが不審に思っていると、小面はどこから出したのか、耀くばかりの白無垢の装束を、ぼくに羽織らせた。そして、三尺もあろうかという巨大な裁縫針のような鋭利な鉄の棒を、ぼくに手渡した。ぼくは、それを持った途端に、己の役割が知れたような気がした。その無様な男は、もう一度、
「き、君、本当に大丈夫なんだろうね?」
と、訊いてきた。声まで少し震えだした。もっと、怯えてほしかった。ぼくの嗜虐性は膨らんだ。どうやら、ぼくは、この男の命を握っているらしかった。そして、ぼくは、完全にやるべきことを自覚した。
「安心しなさい。動かなければ大丈夫です。こちらは何せ腕がいい」
ぼくは、そう云って、小面を促した。小面は、ぼくに痩男の面を被せた。頬骨の出っ張った飢えた貧民の面。保険証も社員証も持たない今のぼくに、何と相応しいのだろう。ぼくは、今にも爆発しそうな嗜虐性を精一杯抑えながら、ゆるりゆるりとした口調で、
「それでは、始めます」
と云った。
ぼくは、その半裸の男に、本舞台の中央まで来るように指示し、正面に向けて正座させた。ぼくは、彼の後ろから、鏡板の松を背負い、施術を開始する。小面から受け取った鋭利な棒で、ぼくは、半裸の男の脇腹を背後から鋭く深く刺した。男は素っ頓狂な声を上げた。
「あれ、これ失敗じゃない? くつくつ……」
痛みは感じていないようである。くつくつと、複雑に引き攣った泣き笑いをしている。男のふやけた肉から針を抜いた時に、白い脂肪と共に、激しく血が噴出してきて、清らかな床板を汚した。ぼくは、この穢れた血を痩男の面越しに見詰めながら、
「そんなことはありません。失敗だとしたら、明かりが足りないからです。腕は確かなのです」
と、確信をもって男を諭した。
ぼくが手を挙げると、本舞台を囲む白州に忽然と群衆が現れた。そして、ぼくは、赤く燻った木炭を、半裸の男の付近目掛けて投げ込むようにと、彼らに命じた。その群衆は、半裸の男の知り合いや親族の類らしく、皆震えていた。
一体、何を恐れると云うのか。ぼくの腕を信じられないとでも云うのだろうか。彼らは、震えた手で紅く燃える木炭を投げる。或る者は遠すぎて明かりの役割を果たし得ず、或る者は近くに投げすぎて半裸の男に火傷を負わせる。良いお灸代わりだ。
ぼくは三昧になって半裸の男の背を刺し続けた。小面は、ぼくの首筋から流れる汗を、白い布で優しく拭いて呉れた。何度か、皮膚を軽く刺激する程度の絶妙さでもって浅く針痕を刻み、腕が良いのを群衆に示してやった。しかし、それにも飽きて、それからは滅多刺しにしてやった。首や頭部も仮借なく刺した。
半裸の男は、無残に死んだ。群衆は煙の如く消えた。
小面は、ぼくの痩男の面を取って、汗を拭き取ってから、今度は喝食の面を被せた。半僧半俗の有髪の少年の面。これもぼくに似つかわしいと思った。ぼくは最早、俗世間に帰るつもりはなかった。ぼくは、ここでずっと小面と暮らすのだ。妻と新しい職業を二つながらに見つけて、ぼくは満足だった。
ぼくは、後に残った半裸の男の死体を見下ろした。この原型を留めない死体は、ぼくの新生活にとって大いに邪魔なものに映った。どうしたものかと思案している内に、ふと好奇心が湧いてきて、血が穢くこびり付いた男の髪の毛を無造作に掴み上げて顔を覗いてみた。すると、社の先輩だったIさんの面影が見て取れた。しかし、見ようによってはTさんにも見えた。正確には、誰だかは判らない。IさんやTさんかも知れないし、全くの別人かも知れない。
いずれにしても、今となってはどうでもいいことだ。ぼくは、この厄介な死体を、この能舞台諸共焼き払うことにした。小面も賛成のようだった。大丈夫、能舞台はどこにでもあるのだから。
ぼくは、群集が投げた木炭の燃え滓を拾い、和紙に引火させ、舞台を燃やした。能舞台に炎は良く似合う。
おわり。