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【エッセイ】私の考える「読書経験量と国語の成績との相関関係」について

 


長い前振り 

 ご存じの方はご存じだろうが(トートロジー(笑))、本日私〆野はXを開設しました。昔ツイッターをやっていたので「何とかなるだろう」と気まぐれに開設したら、余りに様式が異なっていて「全く何ともならない気持ち」に襲われました(ツイッターやめたの7年前くらいだから無理もなし)。で、アウェー感もものすごいしタイムラインの速さに「うげー」ってなったので、アカウントを消そうと思いましたが、私のnoteフォロワーである高草木さんがすかさず間隙を縫ってXアカウントをフォローしてきたため、引っ込みがつかなくなりました(笑)。いやいや、高草木さんには大変感謝をしております。こうして新しいことをやるときに、誰かに背中を押してもらうことで踏ん切りがつくっていうのはありますからね。「ありがたい」という気持ち99%です。「引き返せなくなった」という諦めが1%ありますが(笑)。

 閑話休題。で、Xを見ていたらまあ教育問題の議論が盛んに行われておりまして、タイムライン上では中学受験勢と高校受験勢とが互いの有用性を主張し合い、また「読書量と国語の成績は関係あるのかないのか論争」が行われていました。

 ぶっちゃけ、どっちも「なんじゃそりゃ」という議論なので、よっぽど割って入ろうかと思いましたが、今日アカウント開設したフォロワー数6の奴が入ったところで双方から「てかお前誰だよ!」ってどつかれそうだったので、そそくさとnoteに帰ってきました(笑)。戦うなら自分のホームで戦いたい、〆野はそういう人間です(笑)。ただ、前者は不毛な議論なのでどうでもいいと(私は)考えていますが、後者の「読書量と国語の成績が比例するかどうか」についてはいずれ記事にしたいと考えていましたので、この機会にそれに対する自分の意見をここでまとめたいと思います。

ここからが本題

(当該話題の新聞記事)

(DJ ムッチーさんの当該記事)

 これは新聞でも記事になっており、DJ ムッチーさんも上のように記事にされていますが、文科省(文化庁)がこの調査を開始してから、始めて、一ヶ月の間本を読む人の割合を、読まない人の割合が上回るということがありました。これまでは「活字離れ」と叫ばれながらも、読む人の割合の方が読まない人の割合を上回っていたんですが、これが一気に逆転された、という内容です。まあ、マスコミとしては「活字離れもここに極まれり」といったところでしょうか。

(私もこの記事で、この「活字離れ」問題を、データ読解のネタとして扱っています。)

 で、おそらくこうした話題もあって、X上で「読書量と国語の成績が比例するかどうか」が議論の的となっていたのだと思います。ある先生(家庭教師?)は「授業始まるギリギリまで本を読んでいた子がいたが、その子は国語の成績は悪かった。読書量と国語の成績は関係ない。」と主張し、またある先生(塾講師)は「読書量と国語の成績には相関関係があると、自分の生徒を見ていて思う。」と主張していました。私に言わせれば、どっちもその先生の自分の教え子に対する「個人の感想」でありソース不足なので、どっちも正しいしどっちかが正しいというものではないのかなと。つまりどっちも真実の一面だろうな、というのが私の意見です。すなわち「読書を習慣にしている子の全てが国語ができるわけではないが、読書経験が国語の成績に全く関係していないとも言えない。」ということでしょう。

 これは私も記事にしましたが、「読書が好きでも国語ができない子」というのはある一定数います。これは学校でも塾でも国語を子どもに教えている先生なら、必ずこういう子に出会ったことはあるはずです。それはどういうことかというと、「趣味として文章を読むこと(いわゆる読書)」と「試験で点を取るために文章を読むこと」との抜本的な違いがあるからです。まずこの議論においては、この二つをしっかり分けていかないと実のある議論にはなりません。

(以下の記事の2-2で、「読書が好きでも国語ができない子」の話をしています。)

 趣味で本を読むのなら、どんな読み方でも構いません。自分の興味のあるところをくり返し読んで時間をかけて十分に味わってもいいし、反対に自分が余り関心のないところを読み飛ばしてしまってもいいです。また小説の中に出てきた料理を夢想し、「これうまそうだなぁ。今度お母さんに言って作ってもらおう」など、話しの本筋(主題)から逸れて、自分のイマジネーションの世界に浸ってもいいです。しかし、国語試験の課題文章はそういうわけにはいきません。

 その文章に興味・関心があろうがなかろうが、問題文に答えるためには「課題文章の筆者の意見」や「(文芸)作品の主題」を正しく読めてなければなりません。と言いますか、「それらが正しく読めているかどうか」を問うためにその問題文がある以上、「点を取る」ということで言うなら、そうした読解は不可欠です。また、課題文章と同様に問題文も正確に読めていなければなりません。問われていることが何かわからなかったら、その課題文章がしっかり読めていたとしても、それに正しく答えることができずそれは得点につながらないでしょう。

 これ、実は「読解力や国語力を測るはずの『国語の試験問題』が、実はその生徒の読解力や国語力を測るものとして機能していないのではないか?」という、「国語の試験問題の構造的問題」を含んでいるのですが、そこに立ち入ると話がややこしくなるのでここでは詳しく言及しません。ここでは、「読書」と「国語問題を解く」ことには、同じ「文章を読む」と言っても、違った技術が要求されている、ということだけ述べておきます。

 しかし、ではこれらが全く別物かというとそうではありません。むしろそれらの間には強い関連性があります。たとえば、国語の試験問題を解くためのテクニックとしての読解技術は、たしかに塾とかに行かないと習えないのかもしれません。これを日常の生活(「趣味としての読書」を含む)の中で自然的に習得するのは難しいでしょう(だから塾や予備校がある)。しかし、そうしたいわゆる受験テクニックをどれだけ正確にかつ短期間でマスターできるかは、その生徒が日頃の生活の中で培ってきた「素地としての『国語力』」がどれだけあるかが大きく関わってくるはずです。

 たとえば、これは一つの思考実験ですが、「今まで本を一切読んだことない子ども」がいたとして、この子に「受験テクニック」を指導するとしたら、これは大変骨が折れることでしょう。いや、私なら、こうした子どもがいたとして、この子にどう教えるか全く想像がつきません。語彙力も読解力も表現力もない、というか「読む」という行為がどういうものかが何かわからないでしょうから、まずは「本を読むこととはどうやって行うのか」ということから教えないといけないかもしれません。これは、「全く日本語のできない外国人に日本語の文章を読ませる」くらい難しいことです。

 しかし、そんな子どもは絶対にいません。「日本語で書かれた本を読んだ経験が一切ない子」なんているわけがありません。ただし、「読書経験量の差」はあるわけです。つまり、「学校の授業以外ほぼ本を読まない子」と「学校の授業以外でも本が好きで読書をする子」と二者いて、その間には「読書に対する経験値の差」があるわけです。そして、言うまでもないことですが、前者より後者の子の方が「素地としての『国語力』」があるはずであり、その後者の子がかりに塾に通っておらず「受験テクニック」的な指導を受けていなかったとしても、習い始めれば前者の子より「伸びしろ」があるわけですから、後者の子は前者の子よりも早くそれを習得できるでしょう。当然、普段読書をしている子の方が多くのことばや表現を知っているし、多くの文章を読むために必要な経験値もあるからです。

まとめ

 以上から、「読書を習慣にしている子の全てが国語ができるわけではないが、読書経験が国語の成績に全く関係していないとも言えない。」というのが私の意見と言えます。X上の議論は、先生同士の今までの「生徒指導に対する個人的な経験とその感想」のぶつけ合いであり、その俎上に上がっている子どもたちもそれぞれ読書経験量や学力、勉強量が違うでしょうから、全く比較になりませんし議論にもなりません。

蛇足

 ……ということで、X上の議論についてここまで「それ議論になってないよ」ということを言ってしまったので、この記事はXにあげません(笑)。じゃあ、何でXアカウント作ったのって話ですが、いやまあその、本当に気の迷いで(笑)。へへへ。今日はこんな感じで終わります(笑)。


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