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短編幻想小説『ねじれの報酬』3
Ⅲ
店内は、予想通り混み合っている。小さな子供連れの母親同士や学校帰りの女子高校生グループなど、客層は種々様々だ。Mはようやく確保したカウンター席に座りながら、横目でちらちらと右隣の女性の横顔をうかがった。
額から鼻先までの見事な曲線、長いまつげの間から見える鳶色の瞳、不機嫌そうに閉じられた血色の良いぽってり唇。そして燃えるような赤毛が、その青白い頬を縁取っている。レディ・バウンティフルは、高価そうなゴブラン織りのクラッチバッグから「嘘のように真っ青な」レースのハンカチーフを取り出すと、すばやく膝の上に広げ、ショート・サイズのカフェ・ラテの紙カップを口に運んだ。そして一口飲むと、Mのほうに首を70度回した。
あまりに正確なその動きに、Mはレプリカントの哀しみについて考えまいとし、「あー、こういう大衆的なところにも来るんですね。富裕層の秘書さんも」と口火を切ることにした。
「適した状況の下で、適した代価を試算するのが、私の仕事のひとつです」おそらくレプリカントではないレディ・バウンティフルが答えた。Mは彼女の頬を指で突きたい衝動を抑えながら、会話を続けた。
「なるほど。予算内で、てやつですね」
「そうです。期限内に予算内で業務を遂行することにより、世界の秩序は均衡に保たれ、時空間のねじれは一部の特権者のみの共有資産となりうるのです。あなたにもその資格はあると、川田様はお考えです」
Mは、自分とこの女性だけが別次元にいるのではないかという不安に駆られ、あたりを見渡した。後方の丸テーブルには、丸太のような足をがっぽり広げた制服姿の女子高校生4人が、笑い茸でも食したように大笑いしながらのけぞっていた。いつもは耳を塞ぎたくなる騒音が、逆に今のMには「異次元に飲み込まれるな」という警報に聞こえて頼もしい。
本日お呼び立てしたのは、とレディ・バウンティフルが言った。その言葉を、Mは急いで遮った。
「待ってください。その前に私は、あの男の言いなりになる義務はありません。勝手に家に入り込んで、訳のわからない命令をして、一体どういうつもりですか。今日ここに来たのは、はっきり断るためです。今後いっさい、私に関わらないでください。電話も、もちろんなしです。この事を、きちんとあの人に伝えてください」
レディ・バウンティフルは、表情を変えずにMの言葉を聞いていた。そして彼女が話し終えたと正確に判断すると、例のクラッチバッグから1枚の封筒を取り出し、「これをお渡しするためです」と言いながら、Mの前にそれを置いた。静かだが、有無を言わせぬ威圧感が漂っていた。
Mは無意識にその封筒を手に取ると、中を開いた。4つ折りの黄ばんだ厚紙が1枚、入っていた。怪訝に感じながらも取り出して広げると、それは老人の上半身の素描であった。
それは黒のインクで緻密に陰影が捉えられた、なかなかの秀作であった。老人の顔や首のしわが、まるで葉脈のように繊細に描かれる一方、顔の真ん中に位置する鷲鼻は、いかにも硬質で冷たそうだ。広い額には大小の斑文が点在し、不規則に波打つ細い髪の毛が、耳を半分覆っている。そして、まぶたの垂れた両目は正面を見据え、獲物を狙う猛禽類の獰猛な光を放っている。衣服は着用せず、痩せこけた胸郭が痛々しい。しかしそのモノクロームの老人の裸体には、独裁者的自己顕示の生気が充ち溢れ、「老年=弱者」という定型を一切感じさせなかった。
「この人物を、探してください」
レディ・バウンティフルの声が、遠くで聞こえた。Mは何を言われたのか全く理解できず、留学生的曖昧な微笑で問い返してみる。
「この・人物を・探して・ください。あなたが・です」無表情のまま、レディ・バウンティフルはゆっくりと繰り返した。このままWATERと発声させられそうな錯覚に襲われ、Mは慌てて意識を集中した。会話をしなくてはいけない。
「えっと……、私が、この老人を、さがす。なぜ?」とMが訊ねた。
「彼を見つけるのが、あなたの責務だからです。人はそれぞれに責務があります。特に『カミノコ』の場合は、ですが。それとも、あなただけは代償なしで、最適なタルトを選択できると思っているのですか」
ざわついている店内に、子供の奇声が響いた。しかし誰一人--彼の母親でさえ--その声に反応するものはない。Mは眼前のガラス越しに、河原にたたずむ孤高の白サギの姿を眺めた。彼女たちが現在座っている、全世界規模で展開するカフェのひとつは、川のほとりに位置しているのだ。
サギは人間がすぐ横を通っていこうが一向にお構いなしで、時折くちばしをパカッと開けた。人間たちに何か気の効いた警句を述べようとしているかのようだった。 この光景も美のひとつではないのかしら、とMは思ったが、何も言わずにレディ・バウンティフルの横顔を盗み見た。彼女は相変わらずの無表情で、カフェ・ラテをすすっている。
Mが再度河原に目を移した時、サギはもうそこにはいなかった。ガラスにこびりついている黒い縁取りの水滴の跡だけが、やけに現実味をおびて彼女の目に焼きついた。
しばらくしてMの頭上で「失礼」という、中性的な声がした。Mの左隣に座ろうとしている、杖をついた老人が発したのだった。彼はカップをテーブルに置くとスツールをたどたどしく引き、壊れかけの操り人形のようにぎこちない関節を使って、そのスツールに乗り込もうとしていた。
彼の右手の杖がMの左足に軽く当たり、老人は再度「失礼」と呟いた。Mは「大丈夫ですか?」と言い、彼が腰掛ける手伝いをした。が、その間にレディ・バウンティフルは素早くハンカチーフを片付け、寸分の狂いもない動作で、混みあった店内を出口へと向かっていった。誰一人として彼女の歩みを妨げるものはなく、彼女の前に道が開けるといった具合だった。Mはその後ろ姿を茫然と見守るしかなかった。カウンター・テーブルにはレディ・バウンティフルの実存的証拠として、彼女の血色の口紅のついた紙カップが残されていた。そういえばMのカプチーノも、レディ・バウンティフルの予算内で支払われている。それら2つの紙カップを凝視しながら、大変なことになってきたな、とMは思った。
Mが残りのカプチーノを飲んでいると「失礼ですが、これはあなたがお描きになったのですか」という声がした。Mは不意を突かれ、ビクッと身体を震わせて左を向いた。先ほどの杖の老人が1枚の紙を手に持ち、問いかけるように彼女を見つめていた。例の素描だ。
「すみません。それ私のです」とMは頭を軽く下げ、老人からそれを受けとった。老人は厚いメガネ越しに、優しい澄んだ瞳で微笑を返し、「ええ、そうでしょうね。これはあなたの作品ですか?」と再度質問をしてきた。
「いえ、違うんです。ちょっと預かったもので……」とMは答え、遠慮がちに老人を見つめ返した。なぜか胸の中が熱くなる。
「やっぱり。あなたの作風とは違いますからね」
「そうですね。あの、失礼ですが、あなたも絵を?」「ええ、少し。でも未認定者ですから、あなたとは雲泥の差ですよ。なぜお分かりになりましたか」
「指に筆たこが。それになんというか、同業者のカンというか、なんとなく判るものなんです」
素描を元の封筒に戻しながら、Mは言葉を続けた。「私のこともご存知のようですね」
老人はさもおかしそうに肩を震わせながら「あなたのことは、絵描きでなくても知ってますよ。この町でクラスもお持ちじゃないですか」と答えた。
確かにそうだ。Mは愚かなことを言ってしまったと後悔した。普段、生徒以外であまり新しい人と知り合う機会が少ない分、己の社会的立場を意識していなかったのだ。
彼女は突如、周囲の人間が自分たちの会話に聞き耳を立てているかの恐怖を感じた。こんなザワザワした感情は、数年ぶりのことであった。その時、彼女は突如として、忘れていた昔の情景を思い出した。
私は母親に手を引かれて夕闇の中、石塀の続く長いアスファルト道を歩いている。外気の冷たさとは対照的な母親の手の温もりを感じながら、一方でなにが正解なのか、今の私は満足してもらえるのかと、幼い彼女の胸はザワザワと音を立てて砕け散りそうだった。夕闇に溶けた雲の残骸はどこへいくのか、少女の足元には影ひとつ落ちてはいなかった。
Mの意識が飛び立ったのを察したのか、老人は両手でカップを持ち上げ一気にゴクゴクと中身を飲み干した。そして、少し散歩に付き合ってもらえませんか。ご迷惑でなければ、と訊ねた。押しつけがましい事もなく、むしろ懐かしくてちょうどいい強さの調子だったので、Mは素直に頷いた。彼女は彼がスツールからずり落ちる手伝いをし、忘れ物がないか確かめて、3つのカップをキチンと分別して捨てた。そうして彼らは店を後にした。
店を出ると、ふたりは並んで河原を歩き始めた。大型犬に引っぱられた母子が、彼らを足早に追い抜いていく。浅瀬に渡した飛び石の上には、揃いの小花柄のワンピースを着た6,7歳の幼い姉妹がおり、ふたりして手に持った小石を水面に投げつけていた。平日の夕方の、絵に描いたような平和な風景。いや、絵の題材にはいささか作為的すぎるかもしれない。犬と親子と少女と老人。間もなく夕暮れの薄紅色が全てを覆い、日常の罪なき罪を拭い去る。出来すぎたシチュエーションは危険だ。
「先ほど一緒におられた女性ですが」と老人が言った。「不思議な人だ。まるで気配がない」
「気配?ああ、そうかもしれないですね」レプリカントなので生体反応はありません、と言いそうになり、Mは軽く咳払いをした。
「あの人は絵のモデルになりそうだな。いや、ぼくのという意味でなく一般的に。ぼくは風景画専門ですから」「風景画ですか」
「ええ、田園風景ではなく街の店先とか、そういうぼくの生活圏内のものです。医者には田舎にでも行って療養しろと言われますが、やっぱり住み慣れた街が一番落ち着くんですよ」
老人とMは取り留めもない世間話をしながら30分(杖をついた老人の足で)程度歩き、別れることになった。別れ際、老人はいつでも自分の自宅兼アトリエに来てほしいと言い、簡単な地図を杖で地面の砂地に描いた。彼らが立っている地点から、ほんの近くの場所であった。Mはそこまで送っていくと申し出たが、老人は微笑みながら「ここからはひとりで歩きたいんです」と言った。柔和だが誰にも突き動かせない意志が、張りのある声にみなぎっている。
Mがうなずくと、彼は背を向けて一歩ずつ丁寧に歩き去っていった。50メートルほど離れたとき、Mは思い切って声を張り上げた。
「ワタナベ君」
ワタナベ君はぴたりと歩みをとめた。Mは彼の背中に向かって「きみの筆、使いやすいからもう少し貸しておいて」と投げかけた。
ワタナベ君は振り返りもせず、杖を持っていない方の手を振り、またゆっくりと着実に歩み始めた。10年前の認定試験以来顔を合わすことはなかったが、ワタナベ君の声は忘れていなかった。それからあの関節が妙にごつごつした指も。それで十分なのだ。
徐々に小さくなる青年の後姿をしばらく眺め、彼女は元来た道を引き返した。
《続く》