エッセイ|こう思っている女性だっているんだ
女性ってことを都合よく利用するのって、ちょっとどうよ。
男女平等をもとめつつ、つらい仕事は男性へ。問題が起こると弱さを盾に無関係をきめこんで、派手で目立つこと、受けのいいことは我先にと取りにいく。しかも当の本人にその自覚はない。そんな取りつくろいのご都合女子を、決まって人はもち上げる。
それがお互いにとって、何らかのメリットがあるからだ。
世間では女性差別が克服すべき課題の一つのようにいわれているが、実のところ真の問題は、別のところにあるとわたしは睨んでいる。
とまぁ、ねじ曲がった女性活躍社会や女性登用についてとやかく言ったところで(嫉妬でしょ?)くらいの反応しかないのはわかっているから、男女平等の本質にこだわる人びとは、黙っているしかないわけだけど。
英語ではtokenismというらしい。
企業などが、“人を平等に扱っているかのように、うわべを取りつくろって見せる”こと。単語検索すると「形式主義」だとか「体裁主義」という和訳がでる。
Tokenismはジェンダー問題だけでなく、人種や性的マイノリティ―などさまざまな課題対応の見せかけに使われる言葉だ。余談だが英語に、misogynyという女性蔑視そのものを意味する言葉もある。
女性蔑視も、その反面の歪められた女性登用も、日本特有のものでなく海外の先進国企業にもフツウにあるってこと、英会話の先生と話していて気づいた。
思っていたより普遍的な問題なんだ。
というか、もう一度言うけどジェンダー問題のようでありながら、その実まったく別の問題かもしれない。
言葉ができると、概念ができる。
あるいは概念があるから言葉ができるのか? どちらが先なのだろう。
「女性登用」「女性管理職」
お題目というものは、世間がこぞって唱えだすとネジ曲がるようになる。
あるいは、世間がネジ曲がりだしたからお題目ができたのか? なかなかに興味深いテーマではないだろうか。
やたらに“女子”がもてはやされる時代になった。レストランはいまだ「女子会」を冠したコース設定を売りにして、当の女子たちも、まるで女子会なるものが男子禁制の特区ででもあるかのように、誇らしげに女子会、女子会と声高に叫ぶ。
それが店側にとっても、女子にとっても、何らかのメリットがあるからだ。
女子だろうが、男子だろうが、食事会や飲み会にちがいないのに。
昭和の男女差別にどっぷり浸かって育ったわたしにすれば、むしろ“男どもの集い”にこそ夢やロマンを語りあう壮大なイメージがあって、かえって健全な感じもするのだけれど。
問題は、男か女かってことではない。
理由づけが必要なだけなんだ。
日々、そんなこんなでプリプリ怒っている。
プリプリ怒りながら、お得で栄養バランス満点の「レディースセット」は迷わず選ぶ。これについては話は別だ。女子限定の特典にでくわすと、ハイハイハイ女子でよかったですと前へ出る。
そういうところ、わたしもご都合主義なのではあった。
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