【私の本棚#2】在宅勤務に限界を感じた四半期(2020年7月~9月)
はじめに
在宅勤務という日常が延々と続き、かつての生活にあった「彩り」について考える時間が増えた。オフィスの喧騒、大事な会議前の張りつめた空気、社内ゴシップに満ちた宴会、終電を逃して飛び乗ったタクシーでのまどろみ…
今まで無駄だと思っていた通勤や出張は、自分の五感を刺激する程よい緊張をもたらしていたのだと、今更ながらに気付く。
休日どこかに行こうにも、何か特別な理由がないと誰かを誘いづらい。一人で行っても良いが、平日も一人なので代わり映えがしない。もともとそこまで予定を詰める生活スタイルではなかったが、スケジュール帳に空いた余白が埋まる気配すら無い日々に、大学浪人時代とは別の意味での孤独を感じたのが、この四半期だった。
この期間に読んだ本は、私の心境を如実に表していると思う。今回はいわゆるビジネス書の類は、ほとんど含めなかった。DX(デジタル・トランスフォーメーション)に関連する本は、仕事のためにそこそこ読んだが、取り立てて薦めたいと思えるほど目新しさがなかった。
芥川賞作品2編
このパンデミックの状況下で、再考を迫られていることの一つが「他者との距離感」だと思う。第163回芥川賞作品2編は、奇しくもそのことを考えるきっかけを与えてくれている気がする。
『首里の馬』は、主人公と間もなく失われる沖縄の郷土資料館との関係性の変化を描きながら、他方で世界の孤独者たちとのクイズを介した緩やかな繋がりを謳っていた。
郷土資料館には、役に立つ可能性が低い、けれども文化人類学的には貴重かもしれない物品が蓄積されている。世間的には忘れ去られても一向に構わないそれらアーカイブ資料は、資料館長の死をもって物理的に消滅するのも時間の問題となった。
資料館への思い入れの強い未名子(主人公)が、それらの物品をデジタルアーカイブ化して保存する行為には、失われゆくものへの抵抗や、多様性への配慮を覗かせる。確かに彼女自身は社会的に見たら孤独なのかもしれない(両親はすでに他界、独身)。けれども、モノと結んだ関係に於いて彼女は豊かであった。そして、それらの関係の証を、それがたとえデジタルであっても痕跡として残したくなる心情は、昨今のパンデミック下ではなおさら自然なことに思われた。
世界中に散らばる孤独者たちとのクイズのやり取りは、彼女が社会性を保つ手段として機能していた。経済的に困窮しているわけでない未名子が、特殊なクイズ出題者として働いていたのには、世間体も関係しているのだろう。ただ、いよいよ自分が大切だと思っていたものが失われるとなった時に、世間に対して自分を取り繕う必要さえ無くなったのかもしれない。
世間体を気にすることを止める(≒仕事を辞める)と同時に、孤独なクイズ回答者たちと結んだ関係性は大切にする(≒デジタルアーカイブデータを送信する)という行為には、相反する想いが垣間見える。
社会と自分が、それぞれのライフステージにおいてどんな距離感を取ればよいか。そんなことを読みながら考えていた。
『破局』は、正しさへの拘りゆえに、他者への共感能力を欠いた主人公が破滅していく過程が面白い。(とりわけ、慶應日吉キャンパスになじみがあると、より生々しく情景が思い浮かぶ作品)
主人公の陽介は、自律的/他律的な要素がはっきりした人物として描かれている。すなわち、身体を鍛えることや性欲を満たすことに関しては、極めて内発的な欲求に基づいて行動する。他方で、将来の進路(公務員)を含めた行動規範には自分の意思が感じられない。世間一般で正しいとされていることを正しいとする。そこに疑いの余地はなく、徹底していさえいる。
それゆえに、作中後半以降、自分の正しさが否定され始めるや、ハンバーガーすら選べなくなるほど崩れ落ちていく。それが、元カノ(麻衣子)や彼女(灯)をはじめとする彼を取り巻く人々との関係に、深刻な影を落とす様が愛おしいほどに哀れだった。
他者との関係にどう折り合いをつけるか。距離感は適切か。正しさに満ち満ちた彼の言動を眺めるにつけ、それにある程度共感できてしまう自分に危うささえ覚えた。
村上春樹短編集
多分に漏れず、私は村上春樹作品の愛好家である。普段は作品に入れ込むことはないのだが、今回は極めて主観的に作品世界に浸ってしまった。
この夏で私は30歳になった。20代に別れを告げ、次のステージに…!と意気込みたくなるところではあったが、最近は仕事もプライベートも足踏み状態。月並みに20代を振り返るも、思い浮かぶのは失敗ばかり。
そんな胸中で読んだ「ヤクルト・スワローズ詩集」には妙な説得力があった。ほかの作品も読んで欲しいが、本作だけでも元を取った気持ちにさえなった。感想を詳述することなく、気に入ったページを抜粋する。(少し長めの引用)
でもそれは(注:『風の歌を聴け』で村上春樹が「群像」の新人賞をとること)ずっとあとのことだ。そこに至るまでの、1968年から77年にかけての十年間、僕は実に膨大な、(気持からすれば)ほとんど天文学的な数の負け試合を目撃し続けてきた。言い換えれば「今日もまた負けた」という世界のあり方に、自分の身体を徐々に慣らしていったわけだ。潜水夫が時間をかけて注意深く、水圧に身体を慣らしていくみたいに。そう、人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。 (強調:私)
ブッカー賞(翻訳部門)2020年の選考に残った小川洋子作品
1994年の作品が、今年のブッカー国際賞の最終選考に残ったことが少し話題なった。『博士の愛した数式』や『猫を抱いて像と泳ぐ』等、人間の記憶を題材とした作品を多く残している小川洋子氏の原点に当たるのが、この『密やかな結晶』である。(翻訳版では"The Memory Police"(記憶の警察))。
舞台は、とある架空の島。そこに住む人々は、不定期的に、何の前触れもなく、何かの記憶を失っていく。一旦記憶を失うと、物理的に存在する「その物」と結んだ/結んでいたあらゆる記憶が消失する。例えば、エメラルドが目の前にあって、それを実際に見ることは出来るけれども、それがエメラルドだと認識することができなくなるのだ。仮にそのエメラルドが、誰か大切な人から譲り受けたものだとしても、その物と結びついたあらゆる記憶は脳内から跡形もなく消えてしまうのだ。
ただし、その島には一定の割合で記憶を維持できる人間がいる。その人たちは、島の秩序を乱す者として異端視され、記憶の警察によって連行されてしまう。どんなに巧妙に、記憶を失ったふりをしても、検知技術は日々向上しており逃れることは難しい。記憶警察の連行を逃れるには、匿ってもらうしかないのだ。
作中、主人公は大切な人を家に匿う。家の一部を改造し、仮に家宅捜査されても気付かれないように何重にも家に細工をして、記憶を維持できる人を必死に守るのだ。物語が進むにつれて、島の人々は生活に欠かせない様々な記憶を失っていく。そして最後には…。
勘の良い方は気が付いたかもしれないが、本作には小川洋子氏の『アンネの日記』への思い入れが垣間見える。ナチスの追手を逃れるべく、隠し部屋で息をひそめて暮らす様子を瑞々しく綴ったアンネの記録を、彼女なりの解釈で構想・表現したのが本作だと言える。
『密やか結晶』は、読み手に多様な解釈の余地を与えてくれている。ある人は、これをアルツハイマー型認知症患者の追体験として読むことも出来るだろう。あるいは、言葉こそが自分を表現し、時には自分を守る武器となり、世界を変革する手段となるといった大きな物語として捉えることもできそうだ。
さらには、(1994年に書かれた作品でありながら、このエピソードが差し込まれていることが奇跡に近いが…)津波ですべてを失った老人のエピソードを深く掘り下げることで、不可抗力で何かを失った後の心の立て直し方を考える物語としても読めそうだ。
私たちはいずれ、成長する段階を終えて、ゆるやかに失い始める時期がくる。(すでに私は体力のピークは過ぎてしまっており、そういった意味では喪失は始まりつつあるのかもしれない)
その予行練習として本作を読むというのも、賢い週末の過ごし方なのかもしれない。
改訳・新装版発売を機に
原題はThe Art of Loving。紀伊国屋書店から30年ぶりに改訳がされたことで、改めて読んでみた。
谷川俊太郎氏が「読む者の人生経験が深まるにつれて、この本は真価を発揮すると思う。」と帯にコメントを残しているが、まさにその通りの結果となった。学生時代は、書かれていることのほとんどを、形而上学的に理解していたに過ぎなかった。
本書の主張を荒っぽくまとめると
「愛するという行為は、きわめて技術的なことだ。しかし私たちはそのことに気が付くことなく、愛されたいと思う。あるいは、すでに愛しているのにその愛が報われないと感じてしまっている。それほどに愛するという行為は難しい。そして、愛することの起点は自分自身を愛することなのだ。」
このあたりを実体験を交えて生々しく友人がエッセイに書いてくれているので、こちらも参照あれ。
本書は、いわゆる恋愛指南書ではない。「愛する」ということについて、個人・集団・社会といった様々なレベルから論じることを試みている。そして、そもそもなぜ私たちは「愛する」ことが難しいと思われるのか、つまり、自己愛を獲得できずにいるのかについての哲学的な議論も併せて展開している。
フロムが批判的な眼差しを向ける、現代資本主義の真っ只中で利益を上げている職種で働いている私にとっては、胸が痛む記述もそれなりにあった。本当に自分が大切にしているもの/したいものは何かを、立ち止まって考えさせてくれる、そんなきっかけをくれた本でもあった。以下、少し長い引用。
現代資本主義はどんな人間を必要としているか。それは、大人数で円滑に協力し合う人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、他からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令にはすすんでしたがい、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分をすすんではめこむような人間である。無理強いせずとも容易に操縦することができ、指導者がいなくとも道から逸れることなく、自分の目的がなくとも、「成功せよ」「休まずに働け」「自分の役目を果たせ」「ただ前を見てすすめ」といった目的にしたがって働く人間である。
その結果、どういうことになるか?
現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生命力を費やすことを、まるで投資のように感じている。投資である以上、現在の市場条件のもとで得られる最大限の利益をあげなくてはならない。人間関係は、本質的に、疎外されたロボットどうしの関係になっており、個人は集団にしがみつくことで身の安全を確保しようとし、考えも感情も行動も、周囲とちがわないようにしようと努める。誰もができるだけ他の人びとと密着していようと努めるが、それにもかかわらず誰もが孤独で、孤独を克服できないときにかならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。 (強調 私)
現代人は疎外されている、という主張は真新しくはない。ただ50年以上前に書かれた本書が、今日ますます説得力を持っている気がして、神妙な気持ちになった。
誰も取り残さない社会を目指して
パンデミックの関心の高さゆえに、ほとんど話題に上がらなかったが、今年は戦後75周年(3/4世紀)に当たる。当然国連設立75周年でもあるわけではあるが、今後10年間を考える際にはSDGsが常について回るのではないかと思っている。
一冊目は、SDGsの概説本である。SDGsが策定された経緯や狙い、民間企業での活かし方等が平易に書かれている。実際にSDGsをネタとして、ビジネスに取り組んでいる事例が豊富に紹介されていることもあり、発表されてから5年が経過したSDGsの現在地を理解するという意味では、最適な一冊と言えるだろう。
一方で、二冊目は具体的に企業の戦略策定や新規事業を検討する際の、アプローチ(方法論)にまで踏み込んだ内容となっている。本書は7月に行われた第72回日米学生会議の事前勉強会(お題は「ビジネス×コロナ×SDGs」で今後の経営についてざっくばらんに話した。)でも活用した。
SDGs×経営で、with/afterコロナを語ろうと思うと伝えたいことは自ずと2点に集約された。(学生向けだったこともあり、経営の方面での解像度を下げ、その分SDGsやキャリアの考え方の部分の解像度を高めた)
1.企業の経営戦略と同じく、キャリア設定においても、時間軸を少し長めにとって「ありたい姿」を描く
2.一方で、不確実性が高まる昨今では(リーマンショック、3.11、Brexit/トランプ政権誕生、コロナと直近だけでも沢山)、つねに描いた「ありたい姿」を修正する柔軟さも必要
このようにして自分自身を高めながらも、その成長の目的はあくまでも「誰も取り残さない社会を築く」ことへの少なからぬ貢献でありたい。
ポケモンという壮大なプロジェクト発起人
今年の7月25・26日は、ポケモンGOのコミュニティデーだった。プレイヤーは、$15相当の金額を払い事前にチケットを買うことで、ポケモンGOのゲーム内で開催される盛大なお祭りに参加することができる。例年は、世界各国の複数都市で開催され、いわばゲームのオフ会的な役割を果たしているが、パンデミック下の今年は、どこでも参加できる方式を採った。
なぜ、ポケモンGOを話題にしているかと言えば、今回のコミュニティデーの収益の一部がBLM(Black Lives Matter)の活動に従事している支援団体への寄付を謳っていたからだ。この姿勢に共感したユーザーが多数いたのか、ポケモンGOはリリース4年目にして、今年の7月には過去2番目に高い売上を計上していた。
全世界で愛されているポケモンは、1989年に「カプセルモンスター」という名称で企画が進んでいた。そして、6年以上の歳月をかけて、ポケットモンスターとして世に送り出されたのである。
本書を読むと、ゲームクリエイターの田尻智氏(お気づきの通り、アニメのサトシのモデル)が、小学校時代に森を駆け回って虫取りをしていた原体験のこそ、ポケモンの世界の原点であることが分かる。
なぜ、構想から6年以上の歳月かかかったのか。そしてなぜ、ここまで多くの人々を魅了し続けているのか。敢えて多くは書かないが、短いマンガの中に多くのエッセンスが詰まっていた。
あとがき 何が「善い」人生をもたらすか?に関する息の長い研究結果
最近、一日の始まりの習慣としてTED talkを一つ観ることにしている。その中で、特に心に響いたのが"What makes a good life?"。
問いはシンプルそのもの。人生を「善く」するものは何か。75年にわたって様々な被験者を観察し続けた結果導き出された答えは、富でも名声でも地位でもなかった。それは…ぜひリンクのTED talkをご覧いただきたい。
今のご時世だからこそ、実感を伴って理解できるだろう。今回のnoteにすでに答えをちりばめているので、もはや答え合わせをする必要さえないかもしれない。
新しい知識を得ることよりも、内省することに多くの時間を使った、そんな四半期であった。
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大学院での一番の学びは「立ち止まる勇気」。変化の多い世の中だからこそ、変わらぬものを見通せる透徹さを身に着けたいものです。気付きの多い記事が書けるよう頑張ります。