鳴り響く警告音 “この人は悪人だ!”
あのイタズラっ子は高い罰金をとられた!という噂が流れると、町から同様のイタズラが消えたーー
あの集まりはイケナイことをしていた!という噂が流れると、町で同様の集まりが全て禁じられたーー
私たちの先祖は、互いに助けあう集団生活の中で、誰が役割を果たしている人で/誰がそうしていない人なのかを判断する必要があった。
判断するだけでなく、何らかの方法で、後者を罰したり排除したりする必要もあった。
彼ら彼女らを入れたままでは、グループ全体に、不利益や危険がもたらされる可能性が上がるからだ。
それは、果物の採集をサボりがちな者を意味したかもしれないし、獣から逃げまどってばかりいる者を意味したかもしれない。
また、盗みをはたらいた者には、より厳しい罰が与えられたかもしれない。(明らかに故意・より犯罪的などの理由から)
現代ではどうなのだろうか。
現代社会においては、咎められる人とは、どんな人なのだろうか。
答えは、「福祉トレードオフ比率が低い人」。つまり、ほとんど~まったく与えず・たくさん奪う人。
根本的には変わっていないのである。
我々の脳は、急いで激しい警告を鳴らす。「この人は不利益や危険をもたらす!」「この人は信用できない!」「この人は悪人だ!」
以下、重要なポイントなのだが……
現代でも(環境や事情はさまがわりしても)。私たちは、直観的な反応による価値判断を捨てさっていない。
順を追った合理的な思考ではなく。まず、嫌悪・恐怖・怒りといった強力な感情反応が起こり。それに従って、判断や決断を下しがちなのだ。
放っておけば(意識して対策を講じなければ)。私たちを “支配” するのは、いまだに、この無意識的な反応である。
余談①
与える側の与えすぎ問題について。
これは個人対個人でよく起こる。過剰に与えることは、必然的に、過剰に奪う人を生み出す恐れがある。
意味がわからない人も、例を出せば、ピンとくるだろう。
俗に、反転アンチなどと呼ばれる。このような時の「悪人」は、はたして、実存なのかという話。
余談②
最悪の罪は殺人かもしれないが。最も厳しい罰も、人の生を強制的に終わらせることにより、執行される。
「他人の生を奪うこととは、これ以上ない身勝手である」ーーパラドックス状態ともいえるかもしれない。
道徳的行為からの離脱は、以下のようなことから生じるといわれている。
共感能力の欠如 や 疑似種分化。
疑似種分化:他のグループ(系統)は、自分が属するグループよりも、劣った存在に進化したと考える傾向。これが何のことだかわかるだろうか。そう、差別心のことだ。
ケルドゴー・クリスチャンセン氏は、架空の悪人が醜悪な見た目をしていることが多いのは、偶然ではないと言う。
彼は、『The Texas Chain Saw Massacre』のレザー・フェイスを例にあげた。
外見の嫌悪感は、私たちに、道徳的な嫌悪感をもたらすと。レザー・フェイスの汚い身なりや残忍な咆哮は、これが「絶対的な悪」であることを、私たちに予感や確信させると。
この作品はホラー映画の金字塔と呼ばれ、『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』のさきがけとなった。
同じく、猟奇的殺人の犯人であるヴィランだが……
ハンニバル・レクターは、『ハンニバル』の中で、もはや一般的な人々よりも品のいい身なりで登場する。
香水の専門店に通ったり、野外オペラを鑑賞したりと、センスも抜群であると表現される。
かく言う私も、そんなレクター博士のファンである。
前者と後者で。我々のもつ「印象」は、明らかに異なるはずだ。
表面的な嫌悪感の多さ/少なさは、警戒音の鳴りやすさ/鳴りにくさに、関係している。
利己的・搾取的・サディスティック……このような特徴は、基本的に、「向社会的ではない」とされている。
そういった特徴をもつ人物を集団から排除しようとする行為は、社会から脅威をとりのぞくためであると、正当性を感じることだろう。
だが。その判断は、あいまいで不安定な根拠から構築されていたりする。
直情型という表現があるが。みんな、そうなのである。思考力や自制心などの “道具” を使う程度が、人によって、異なるだけなのである。
どちらかと言うと。これは知能の話ではない。選択や意思の話に近い。私たちは、他者のことのみならず自己のことさえも、よくわかっていないのである。
参考文献https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA
https://en.wikipedia.org/wiki/Pseudospeciation
https://www.jstage.jst.go.jp/article/personality/30/2/30_30.2.7/_article/-char/ja