ギャングが選んだ禁酒法時代のBGM
今回は、音楽と酒とギャングの話。
「Jazz」という言葉は、最初は「jass」とつづられていた。
「jass」は性行為を表すスラングだったらしく、女郎屋のことを Jass House と言ったりもしたそう。アメリカ史上唯一の公娼制度は、ニューオリンズで60年間続いたもの。
フランス語の「jaser」(元気をつけるという意味)からきたという説がある。現在の辞書には「jass」という言葉はない。
ニューオリンズはジャズ発祥の地。
アルファベットで見るとわかりやすいだろう。New Orleans(新しいオルレアン)は、植民地時代、フランスの領地だった。フランス人が、オルレアン公フィリップ2世にちなんで、名づけたのだ。
今でも、独特のフランス風家屋がある街並みや、フランス語の名がつく複数の場所がある。
ss が zz になった流れは諸説ある。
ジャズはシカゴでも人気になった(ニューオリンズからシカゴへ伝えた音楽関係者がいたりで)。差別化をはかったのかスラングを避けたのか、シカゴで、zz 表記が使われ出したという説が有力だ。
「ヒップ」という表現の話もする。
禁酒法時代の初期に、あるミュージシャンが別のミュージシャンに「あなたはヒップですか?」とたずねた時から、裏社会の専門用語になった。
酒入りのフラスコ(スキットル)をもってるかどうかを確認するために、使われた。
ちなみに。スキットルの名前の由来は、18世紀頃のイギリスで流行った、木製のピンを倒す遊び。ボーリングの起源とも言われている。
スキットルが生まれた頃のヨーロッパの水は、大変汚れていた。
近世以前のヨーロッパの都市部では、人々が、窓から汚水を垂れ流して捨てていた。食事中の人もいるかもしれない。どんな汚水かハッキリ書くのはやめておく。
産業革命で工場からの排水も。テムズ川は、病原菌の温床と呼ばれるほどの状態に。
喉を枯らした人々は、水の代わりに酒を飲んでいた。アルコール分の薄いビールや、保存が効く蒸溜酒だった。
酒は、消毒された水のような感覚だった可能性。実際に、このような記録が残っていたりする。「ビール醸造所で働きビールを常飲していた人は無事だった」。健康法の紹介のような雰囲気だ。酒を携帯したのも、うなずける。
スキットルは、ウイスキーを隠すためにも使われた。
当時、スコットランドやアイルランドで造るウイスキーには、重い税がかけられていた。スキットルは、脱税の相棒だったわけだ。
海賊版という意味の言葉 Bootleg は、密造酒をスキットルに入れて、ブーツの中に隠したことから。
アメリカで禁酒法がはじまってから、スキットルは一躍有名な小物になった。
アル・カポネについて。
イタリア系アメリカ人だったアル・カポネは、1899年、ニューヨーク市のブルックリン地区で生まれた。14才頃から学校へ行かなくなり、オシャレをして遊びまわっていた。ビリヤードが大の得意で、非常に治安の悪い店に出入りしていた。
そうこうしている間に、イタリアン・マフィアと知り合いになった。 ニューヨーク・ギャングとも知り合いになった。
やがて、ニューヨーク・ギャングの1人に認められ、暗黒街のメンバーに仲間入りした。(シチリア出身でないカポネは、“本流” であるマフィアには入れなかった)
カポネは、裏社会の仕事でシカゴへ渡った。
賭博場兼売春宿の支配人になる頃には、大きな収入を稼ぐ実業家になっていた。
家を購入し、ブルックリンから家族を呼び寄せた。兄弟姉妹は8人もいた。
暗殺されかけ負傷したリーダーが、引退。カポネは、26歳で組織のトップに立った。抗争で、他のギャング組織のメンバーを次々に排除。
賭博・売春・密造・贈収賄・麻薬密売・強盗・みかじめ・ゆすり・殺人で商売をしたカポネらの年間収益は、6200万ドル(現代の貨幣価値で8億3千万ドルくらい)にもなっていた。
ギャングが、市議会議員や警察を買収。
1920年代~1930年代初頭、捜査局の捜査権限は、現在よりも限定的であった。当時のギャング抗争や略奪行為は、捜査の範疇ではなかった。
法執行機関からもアンタッチャブルな存在となったカポネは、まるで市長のようだった。シカゴが犯罪帝国みを帯びていたことが、伝わってくる。
禁酒法は、違法な取引で儲けるマフィアやギャングにとって、むしろ好都合だった。
急に酒を飲むなと言われて。「はい、そうですか」と、おとなしく従うわけがない。
人々は、スピークイージー(もぐりの酒場)に集まった。男女入り混じっての飲酒文化も育まれた。政治家だって酒場(高級ランクの)で遊んでいたし、警察だって賄賂を受けとって見逃したりしていた。
世の中はそんなものだ。抑圧されれば、人間は自由を求めて道を見つける。
1920年代以前。ジャズは、“色つき” 音楽として軽蔑されていた。
ジャズがはじめて形をなしたのと、ほぼ同時期に、組織犯罪も潜伏段階にあった。
多くの場合、イタリア人だが。時には、アイルランド人やユダヤ人であるマフィアは、アフリカ系アメリカ人を自分たちと同じ「アウトサイダー」とみなした。そうして、彼らはジャズを好んだ。
禁酒法時代。ニューオリンズ、シカゴ、デトロイト、ニューヨークなどのほとんどの照明の暗いクラブに、ジャズの生演奏や歌が響きわたっていた。
ジャズ・ミュージシャンたちは、貧困から救われ、音楽に集中することができた。
「ジャズ・エイジ」が禁酒法時代と重なっている理由だ。
アル・カポネもジャズをこよなく愛した。
1923年から第二次世界大戦にかけて、シカゴは世界のジャズの中心地となった。
70以上のナイト・クラブ、ボール・ルーム、劇場ホールが、ダグラス・コミュニティのブロンズビル地区の通り、特に31丁目から39丁目までに立ち並んでいた。
映画『華麗なるギャツビー』(1974年版と2013年版がある)の時代背景も。ローリング・トゥウェンティーズ(狂騒の20年代)とも、ジャズ・エイジとも呼ばれた、1920年代だ。
ニューヨーク郊外のロングアイランドの豪邸に住む、ミステリアスな大富豪ギャツビーの物語。
ルイ・アームストロング、キャブ・キャロウェイ、カウント・ベイシー、アール・ハインズ、ジェリー・ロール・モートン、ファッツ・ウォーラー、ビリー・ホリデイ、キング・オリバーと彼のクレオール・ジャズ・バンド、ナット・キング・コール……
みんな、アル・カポネが所有するクラブで、青春を送った。
アームストロングの愛称は、Satchel Mouth を略して、サッチマやサッチモだった。
カバンの開き口のように大きな口で歌うから、というのが信じられているが。実は、諸説ある。
小銭稼ぎのために踊っていた少年時代。年長の子どもたちに稼ぎをとられないように、投げられたコインをすぐに口に入れていたからーーこんな話もあるのだ。
ビリー・ホリデイなら、私は『Blue Moon』が好きだ。
ナット・キング・コールは、やはり『LOVE』がよい。『モナリザ』も好きだが。
「サンセット・カフェ」は、シカゴ・アウトフィットの敷地内にあった。大恐慌の間も営業を続けた、有名な店。カポネがここの株式の25%を取得してからは、グランド・テラス・カフェに改名された。
「The Chicago Outfit」は、シカゴに拠点をおくギャング組織。5つのマフィアが分割支配するニューヨークと違い、シカゴはこのファミリーが単独で支配する。カポネは3代目のボス。
カポネは、ジャズを金儲けの手段にしていたが、音楽として純粋に愛してもいた。
「黒人にとっては、 マフィアのボスよりも白人の警察官の方が恐ろしかった。マフィアは、商業市場において、自分たちを守ってくれる存在だった」
このような記録もある一方で。多くのジャズ・ミュージシャンが、ギャングの気まぐれに支配されるていたことも、また事実である。
アームストロングは、人気絶頂の中、アメリカを離れたことがある。ヨーロッパで2年間を過ごした。マフィアやギャングの支配に抵抗して、のことだったそう。
これは他のミュージシャンの言葉だが。「彼らがいいと言うまで、誰もコットン・クラブから出ることはできなかった」
アームストロングは、カポネのことを「小さくてかわいくて太っていて、大学を出たばかりの若い教授のような、感じのいい男」と表現した。
何事もそうだが。二面性/多面性があったということだろう。
しかし。大枠では、これもプランテーション・ビジネスと同じだったのかもしれない。農園での奴隷生活よりはましでも。
ベートーベン、バッハ、モーツァルト……クラシック音楽の作曲家たちには、パトロンがいた。ジャズ・ミュージシャンたちにとっては、それが、犯罪組織だったということだ。
アル・カポネは、1929年に逮捕され服役した。しかし、たった1年で釈放された。1931年に脱税などの罪で有罪となった時は、7年半服役した。
釈放後、もうシカゴに戻ることはなかった。精神的に、ギャング政治に戻ることができなくなっていたため。1946年に、精神科医は、カポネが12歳ほどの精神状態になってしまったと結論づけた。
1947年、脳卒中と肺炎で亡くなった。
マフィアやギャングによる主要ナイト・クラブの支配は、1980年代まで続いた。
具体的には書かないが。フランク・シナトラほど、裏社会とつながりの深かったミュージシャンはいないという。
動画は『Strangers in the Night』。最高の一曲だ。
歴史はいろんな表情をしながら、いろんな歌もうたっている。