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壁の隙間に宿る歌

都心のビル群が乱立する街、その一角にある小さなアパートの壁の隙間を、私はねぐらにしている。人間から見れば、ほんの指先ほどの大きさしかない小人の身。

足音もかすかな私の存在に、誰一人として気づくことはない。昼間はじっと隙間に身を潜め、夜になるとこっそり廊下へ出て食料を集めるのが日課だった。

あるとき、私は住人たちの会話を耳にするようになった。壁に耳を当てれば、それぞれの部屋で交わされる言葉が、薄い板一枚を隔てただけで響いてくる。

すると、どうやら多くの人間が、他人の評価に苛まれながら暮らしていることが伝わってきた。部屋の住人が自分自身を責める声、仕事の成果を上司に認めてもらえないと嘆く声、自分の感情をうまく伝えられないと落ち込む声。

こうした苦悩の吐露は、人々が外で見せる姿とはあまりに違っていた。

夜中の廊下を歩きながら、足元に振動が伝わることがある。さりげなくドアの隙間から中を覗き込むと、リビングで泣き崩れている青年がいた。会社の評価基準に合わないと言われ、何度も企画を却下されているらしい。

彼は殻に閉じこもるようにソファに沈み込み、声にならない叫びを上げていた。見てはいけないとわかっていても、私はその悲鳴に似たか細い声に胸を締めつけられる。

人間の世界は広大だというのに、彼の内面はこんなにも追いつめられているのだろうか。

小さいころの私は、外の世界への憧れを抱いていた。人の暮らしを眺めるうちに、自由で豊かな世界を想像していたのだ。けれど、壁の隙間に住みながら人間を観察するうちに、必ずしも自由ばかりではないことを知った。

むしろ大きな身体と社会を抱え込む彼らこそ、無数の決まりごとに囚われて息苦しそうに見える。

そんなある晩、私は部屋の棚の上にひっそり佇む青年の手帳を見つけた。そこには、斬新なアイデアのスケッチや、部屋に置くインテリアのデザインらしき図案が描かれていた。

どれも心を踊らせるような魅力があるのに、彼はそれを捨て去ろうとしているようだった。手帳の端には
「どうせ認められない」
と走り書きがあり、苦悩の跡がにじんでいる。

私は小人として、人間の大きなものを動かすことなどできない。けれど、どうにか彼の心を少しでも揺り動かす手段はないかと考えた。手帳の最後のページには余白が残っていた。その白い紙の隅に、私は工夫を凝らして、小さな文字でそっと言葉を記した。

「あなたの描くものは面白い。誰かの期待よりも、あなた自身が大切だと思う気持ちを信じてほしい」

夜が明ける前に、こっそり棚から降り、壁の隙間に戻る。彼がこの言葉を見てくれるかどうかはわからない。ましてや、小人のメッセージだと気づかれたら、奇異の目で見られるかもしれない。

それでも、私がここで何もせずにいたら、彼が諦めてしまうような気がしてならなかった。

翌朝、部屋の中にふわりと暖かな空気が流れ込むのを感じた。いつも張り詰めたように冷え冷えとしていたのに、その日は少しだけ空気が柔らかい。それは、おそらく彼が手帳を手にした瞬間から、何かを変えようと決意した証拠なのかもしれない。

ドアの隙間から覗くと、彼は手帳を抱え、窓を開けて深呼吸していた。まるで新しい風を受け入れるように。

それから数日が経ち、青年の部屋からは新しく作られたデザイン案の資料がいくつも見つかった。壁越しに聞こえる電話のやりとりは、以前よりも心なしか明るく前向きに感じられる。

彼は確かに少しずつ変わっているのだろう。私は時折、彼がファイルを抱えたまま笑顔を見せる姿に、胸をなで下ろす。そうして人知れず、僅かな達成感を得た。

私にできるのは、この程度の小さな行いでしかない。それでも、誰かが一歩踏み出すきっかけになれたのなら、この壁裏の部屋でひそやかに息づく存在にも、わずかな意義があったのだと思える。

人間の社会は大きく複雑だが、そこに見えない隙間は数え切れないほどある。小さな私が棲む場所も、きっとそのどこかにあるはずだ。

今晩も私は、壁の隙間から廊下へと足を踏み出し、ほんの少しだけ彼の部屋を覗き見る。新しいデザインの構想を練りながら、彼はどこか楽しそうにペンを走らせていた。

あの手帳の裏に書いた言葉を今も覚えていてくれているのだろうか。そう思うと、私の胸に小さな歌が湧き上がる。誰にも聴こえないほどかすかな旋律だけれど、確かに私の世界を鮮やかに染めていた。

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