古典、故事成語006(荘子・淮南子・史記)
万物斉同(荘子)
是非・善悪・貴賤・美醜・苦楽・悲喜・生死…
人間は両極の価値観に一喜一憂されて日々を過ごしているが、一方が消滅してしまえば、もう一方も成り立たなくなり、そんな不確かなものに振り回されて日々を過ごすのは不幸な事である。
人間万事塞翁が馬(淮南子)
禍福は糾える縄の如し(史記)
塞(とりで)に住む翁(老人)の馬が外国へと逃げ人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は外国の駿馬を連れて戻って来た。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると外国の駿馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、外国の軍が攻め込んで来て戦争となり若者達は殆どが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れた為、戦死しなくて済んだ。
禍と福は表裏一体で、禍によって福を招き、福によって禍を招く。
縄のように密接な相互作用があるのだから、一喜一憂して振り回されるな。
※注釈※
文明の進歩に比例して、人々はより多くの欲に振り回されながら生きている。文明の進歩自体が人間の旺盛な欲によってであり、その欲により人類は繁栄したが、その欲により人類は滅亡するだろう。
この世は均衡を保とうとする作用があるし、良い事も悪い事も表裏一体で、全ては循環している。その大いなる河の流れの中で、人間一人は一滴の水に過ぎない。
一滴の水が清くなろうとも濁ろうとも、大いなる一つの河の中の一滴に過ぎない。そして、その河もやがては海へと辿り着き蒸発して天へと還る。
そんな世や人生を背景に、短期的な善し悪しに一喜一憂して振り回されず、淡々とした人生を味わっていきませんか?
旧ブログにて2015年10月25日に記載していたもの