慈経
皆さんこんにちは。
今日は、慈経を紹介したいと思います。
絶版になってしまいましたが、サンガ社から出版されていたA・スマナサーラ著の『慈経/宝経/吉祥経』からパーリ経文と日本語訳文を引用して紹介させていただきたいと思います。
解説については、A・スマナサーラ著の『慈経/宝経/吉祥経』や『ブッダの「慈しみ」は愛を超える』などを参考にさせていただきながら解説していきたいと思います。
慈経について
慈経は、お釈迦様が出家比丘達に対して他の生命との適切な関わり方を説いたお経であるとされています。
ある時、比丘達の一団がヒマラヤの麓の森で修行を始めたが、その森に住んでいた樹神達(他宗教の修行者や原住民と解釈することもできる)が比丘達を森から追い出そうと邪魔をして修行がうまく進まないという出来事があったといわれています。
そのような報告を受けたお釈迦様がその比丘達に説いた教えが慈経であるという因縁譚が伝わっています。
慈経はテーラワーダ仏教で智慧と並んで重要視されている慈悲(慈悲喜捨)の実践について説かれたお経です。
また、前述した因縁譚から護経ともされています。
慈経は全部で十偈の短い構成となっていますので、第一から第十まで偈ごとに経文を引用しながら簡単に解説していきたいと思います。
第一偈
慈経 Mettasuttam
第一偈 143.
カラニーヤ マッタクサレーナ ヤン タン サンタン パダン アビサメッチャ
Karaṇīyam atthakusalena yan tam santam padam abhisamecca;
サッコー ウジュー チャ スージュー チャ スワチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー
Sakko ujū ca sūjū ca suvaco c'assa mudu anatimānī.
第一偈 [解脱という] 目的をよくわきまえた人が、静かな場所へ行ってなすべきことがあります。 何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で、 高慢でない人になるように。
このお経はお釈迦様が出家比丘達を対象に解脱へ導くという目的で説いたものなので、「目的をよくわきまえた人」というのは解脱を達成する為に出家して修行に励む比丘達ということになります。
第一偈では、世俗から離れて出家して修行に励む出家修行者達が持つべき心構えや育てるべき性格について述べられています。
修行して目的を達成する為には、修行をやり遂げる芯の強さや粘り強さなどの推進力だけではなく、指導者の指導や仲間のアドバイスを素直に聞いて柔軟に対処する軌道修正力の二種類を適切に使い分けることが非常に重要なのです。
第二偈
第二偈 144.
サントゥッサコー チャ スバロー チャ アッパキッチョー チャ サラフカヴッティ
Santussako ca subharo ca appakicco ca sallahukavutti;
サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ アッパガッボー クレース アナヌギッドー
santindriyo ca nipako ca appagabbho kulesu ananugiddho.
第二偈 足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、裏表がなく、 在家に執着しないように。
第二偈では、修行を適切に行う為に必要な出家修行者の生活態度について述べられています。
「在家に執着しないように」とは、このお経での指導対象である出家修行者に対する戒めです。
出家者は、解脱という目的を確実に遂行する為に家族を捨てて出家して生活に必要な衣食住薬は在家者から施しを受けることで労働を免れて修行に専念しているのです。
そのような目的で在家の生活を捨てて出家した修行者が、施しをしてくれる在家者達に対して執着してしまって必要以上に愛着をもったり心配したりして心が汚れてしまっては本末転倒なのです。
第三偈
第三偈 145.
ナ チャ クッダン サマーチャレー キンチ イェーナ ヴィンニュー パレー ウパワディッユン
Na ca khuddam samācare kiñci yena viññü pare upavadeyyum;
スキノー ワー ケーミノー ホントゥ サッベー サッター バワントゥ スキタッター
sukhino và khemino hontu sabbe sattā bhavantu sukhitattā.
第三偈 智慧ある識者たちが批判するような、どんな小さな過ちも犯さないように。 幸福で平安でありますように。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
理性のある賢い人や道徳のある人格者の批判や忠告は素直に聞き入れて学ぶことは重要です。
世の中には様々な人がいるので、愚かな人の間違った意見や誹謗中傷までいちいち気にする必要はないのです。
この偈では、全ての生命に対して「幸福で平安でありますように」「幸せでありますように」という慈悲の気持ちを持ちましょうと推薦しています。
第四偈
第四偈 146.
イェー ケーチ パーナブータッティ タサー ワーターワラー ワー アナワセーサー
Ye keci pāṇabhūt'atthi tasā vā thāvarā vā anavasesā;
ディーガー ワー イェー マハンター ワー マッジマー ラッサカー アヌカトゥーラー
dhīgā vā ye mahantā vā majjhimā rassakā aṇuka-thūlā.
第四偈 いかなる生命であろうともことごとく、動き回っているものでも、動き回らないものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
この偈では、慈悲の対象になる全ての生命を姿や状態ごとに列挙しています。
「動き回っているもの」「動き回らないもの」
には、物理的な動きや状態だけではなく精神的な意味も含まれていると解釈できます。
動揺して怯えている生命もいれば、落ち着いていて安定している生命もいるという生命の精神状態も表しているという意味で捉えた方が良いのです。
第五偈
第五偈 147.
ディッター ワー イェー ワー アッディッター イェー チャ デゥーレー ワサンティ アヴィデゥーレー
Diṭṭhā vā ye vā addiṭṭhā ye ca dūre vasanti avidūre;
ブーター ワー サンバウェースィー ワー サッベー サッター バワントゥスキタッター
bhūtā vā sambhavesī vā sabbe sattā bhavantu sukhitattā.
第五偈 見たことがあるものもないものも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、既に生まれているものも、卵など、これから生まれようとしているものも、生きとし生けるものが幸せでありますように。
仏教では五道・六道輪廻などが説かれていますので、「見たことがあるものもないもの」には人間や畜生などの肉体を持っている生命だけではなく、肉体を持たないので通常は視認することができない神々や餓鬼なども含まれているのです。
また物理的な距離だけではなく、生命としての次元の違いを遠近で表現しているという意味もあります。
第四・五偈では、慈悲を向ける対象である生命について様々な種類に分類しながら説明しています。
第六偈
第六偈 148.
ナ パロー パラン ニクッベーター ナーティマンニュータ カッタチナン カンチ
Na paro param nikubbetha nātimaññetha katthacinam kañci;
ビャーローサナー パティガサンニャー ナーンニャマンニャッサ ドゥッカ ミッチェッヤ
vyārosanā paṭighasaññā nāññamaññassa dukkham iccheyya.
第六偈 どんな場合でも、人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。
第六偈からは、生命に対しての慈悲の実践の具体的な方法についての説明に入ります。
第七偈
第七偈 149.
マーター ヤター ニャン プッタン アーユサー エーカプッタマ ヌラッケー
Mātā yathā niyam puttam āyusā ekaputtama nurakkhe;
エーワン ピ サッバブーテース マーナサン バーワイェー アパリマーナン
evam pi sabbabhūtesu mānasam bhāvaye aparimāṇam.
第七偈 あたかも母が、たった一人の我が子を、 命がけで守るように、そのようにすべての生命に対しても、無量の [慈しみの] 心を育ててください。
ここでは、全ての生命に対して慈しみの心を無制限・無量に育てる重要性を強調しています。
第八偈
第八偈 150.
メッタン チャ サッバローカスミン マーナサンバーワイェー アパリマーナン
Mettañ ca sabbalokasmim mānasam bhāvaye aparimāṇam;
ウッダン アドー チャ ティリヤンチャ アサンバーダン アベーラン アサバッタン
uddham adho ca tiriyañ ca asambādham averam asapattam.
第八偈 慈しみの心を一切世間 (すべての生命)に対して、限りなく育ててください。 上に、下に、 横 (周り) に [棲む如何なる生命に対して] も、わだかまりのない、 怨みのない、敵意のない心を育ててください。
この偈では、全ての生命に対して無制限・無量に慈しみの気持ちを向ける実践方法として方向や方角を用いて説明しています。
自分を中心にして、上下左右前後という六つの方向に分けて順番に念じることで全ての方向に住む生命(全ての生命)に慈しみの気持ちを向けることができるのです。
第九偈
第九偈 151.
ティタン チャラン ニスィンノー ワー サヤーノー ワー ヤーワタッサ ヴィガタミッドー
Tiṭṭham caram nisinno vā sayāno vā yāvat'assa vigatamiddho;
エータン サティン アディッテェッヤ ブラフマメー タン ヴィハーラン イダ マーフ
etam satim adhiṭṭheyya brahmam etam vihāram idham āhu.
第九偈 立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、あるいは横になっていても眠っていない限り、この[慈悲の]念をしっかり保っていてください。 これが梵天(崇高なもの) の生き方であると言われています。
慈悲の実践は、行住坐臥という全ての姿勢で行うことが可能です。
第八偈までは、慈悲の実践についての説明でしたが、第九偈では慈悲の実践はこのように常に取り組むべき重要な実践であることを説明しています。
慈悲の実践に常に励み、無量の慈悲を育てることに成功した修行者は梵天のような崇高な存在なのです。
梵天とは、インドでは最高の神だとされている存在です。
この第九偈では、バラモン教などの仏教外の修行者の目指している究極の境地である梵我一如に達する方法について説かれているのです。
瞑想実践の文脈で説明すれば、慈悲の瞑想を実践することで禅定に達した状態を梵天の境地に達したと表現していると説明することができます。
輪廻からの解脱を目指していない仏教外の瞑想修行者にとっては、この梵我一如が最高の境地なので修行が完成したということができます。
しかし、第一偈でも既に述べたように仏教での慈悲の実践の目的は解脱に達することです。
慈悲の実践に励んで、梵天のような崇高な存在になったとしても修行の目的を達成したことにはならないのです。
第十偈
第十偈 152.
ディッティン チャ アヌパガンマ スィーラワー ダッサネーナ サンパンノー
Diṭṭhiñ ca anupagamma sīlavā dassanena sampanno;
カーメース ヴィネッヤ ゲーダン ナ ヒ ジャートゥ ガッパセッヤン プナレーティー ティ
kāmesu vineyya gedham na hi jātu gabbhaseyyam punaretī ti.
第十偈 [このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、諸々の欲望に対する執着をなくし、 もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す) ことはありません。
最後の第十偈は、この慈経で説かれている実践によって達成することができる結果である解脱について簡潔に述べられています。
解脱の境地に関しては、以前に書いた初期仏教での悟りについてという記事で解説しているのでそちらを参照して下さい。
「[このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、」とは、有身見と戒禁取と疑の三結を破って預流果に達したという意味です。
次の「諸々の欲望に対する執着をなくし、」とは、さらに実践を続けることで欲と怒りの煩悩が弱まれば一来果、欲と怒りを完全に断つことに成功した場合は不還果に達したという意味です。
最後の「もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す) ことはありません。」とは、不還果に達したので文字通りもう二度と生まれることはない解脱の境地に達したという意味です。
以上で、慈経の紹介と簡単な解説は終わります。
終わり
ここまで読んで下さった皆様に、三宝のご加護がありますようにと御祈念申し上げます。
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生きとし生けるものが幸せでありますように。