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【エッセイ】犬のおばあちゃん

「そういえば、犬のおばあちゃんみとらんね」
「元気なんかな?」

岐阜弁丸出しの会話をお風呂上がりに母と交わす。ふと“犬のおばあちゃん”について思い出した。そう言われてみれば、見ていない。

犬のおばあちゃん、とは老犬のことではなく犬を連れ散歩しているおばあちゃんのこと。周りの人はどうなのか知らないがとりあえず我が家庭ではそのおばあちゃんのことを“犬のおばあちゃん”と呼ぶ。

毎日夕方頃に犬をシルバーカー(手押し車とも呼ぶらしい)に乗せ近所を散歩していて、ふさふさの白い毛が生えたわんこをみているととても癒される。比較的犬を飼っている人の多いこの地域でよく見る犬の一匹。

学校帰りにおばあちゃんと会話を交わしたり、時にはわんこさんに触らせてもらったり。

いつものように見ているものだから、いつものように存在していると思っているから、最近見ていないことに気がつけなかった。

次の日、また犬のおばあちゃんをよく見る道を通ってもやはり居ない。心なしか少し寂しいような。そのひとつのことが無くなったところで自分の生活がどうこう変わる訳でもないのに。

その次の日、それはもう久しぶりに“犬のおばあちゃん”に会った。ただ、会えたのは“犬のおばあちゃん”ではなく“おばあちゃん”。シルバーカーには犬が居ない代わりに写真が貼られていた。とても笑顔な、ふさふさの毛並みの犬の写真。
おばあちゃんに尋ねることもできず写真だけを横目に通り過ぎていった。

「ねぇ、犬のおばあちゃんのわんこどうしたんやと思う」
「…ご愁傷さまやったな」

犬の代わりに、犬の写真。それから連想されるのは「死」の一文字。母にまた、お風呂上がりに話すとそんな言葉が帰ってくる。

この家に住み始めてからの十年以上も見てきた“犬のおばあちゃん”の姿がもう永遠に見れなくなってしまうことにぼんやり淋しい思いが込み上げる。


この文を書いている今もそんな風に些細な「日常」がすこしずつ変わり果てて行く。その変わり果てをどう受け止めよう。

そしてまた帰路につき、あの道を通る。
“犬のおばあちゃん”でなくなった、おばあちゃんのことをずっと“犬のおばあちゃん”と言い続ける自信がなぜか、あるのだ。





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