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Σ 詩ぐ魔 特別号2号

12/25 9:37更新


読点とプー

壹岐悠太郎

 
音階のただしさを、ぼくらは認知しないまま、調律師υが目ざめをおしえるとき、湖をわたす橋の劣化は著しい。言とばしらずのいぬ語を誤訳していた、チープな手袋を電熱線で結い、figue、とおとならず、ものの声に、吸収されていく伏目の文庫本静かな生活。は、線香花火をまたない、遮断する事務のつづきについて、偽書を書くとき、iPhoneは目にはやさしいことを思いだすと、光虫の群れを数える。raindropれんしゅうします、の向こうに立っている男の子が目を合う
 
(ながい円錐型の、鉛筆でうすくひいた文字列が、雨ざらしの休暇によってなくなると、カンガルーの胸像にひとつ傷をつけた。)
 
かれの小屋がいつかまばゆい発光体になると、首元まで覆うように着たチャコールグレーのニットが途中まで縫ってある。注釈にかかげられたぼくらの一週間。ひだりから順にみじかく泣いてみる、白パンにはさんだ厚いハムの脂がだんだん溶けて、踊るよ枯草のしげる遠景。こどもむけの物語をつくる釣師たちが橋の下をくぐるクリストファー・ロビン
 
(スイレンの送り文字をつかみ、彗星だとおしえられた。ぶりゅぶ、うまく発音できないままでいます。)
 
まだ、あの森の地図があったとき、ふかいかなしみがあったとおもう。くろく塗りつぶしたjarbin、かれらの言とばが虫歯の治療方法だったとかんがえていた。犬歯のさきがくぼんでいる。それでもまた、ヴィブラフォンのモーターが稼働していたよ、やわらかいマレットでたたくラの音もらららら。精確さを欠いた楽譜のななめがまっすぐになっていたね
 
(木にも穴をあける小鳥のような響き。水面に落下したチョコレートがあわく広がる。舌の上でころがす音域の、その不慣れなすがたをスケッチした。)
 
「もぐらのこと、」ぼくは代読する「くさばなの図鑑を」かれが話す「橋の下で丸太をみっつ繋げた小さないかだの上で」ぼくは代読した「γのことを思いだすたびにつるつるした木陰に消えてった」かれが話す「どの音もならなくなってしまったから、それでもぼくらは楽譜と地図を束ねて、」ぼくの無音だ「ピ―」かれが話す「水辺でまたやってみようとおもうよ」ぼくは代読する「すこし先のドライブインまで歩いていくだろう、」かれが話す「ミルクびんが曇るせいでおとろえていくせなかのほつれ。西の町にはきょうはじめて雪がふった



蛸(文庫を読む小説)

小笠原鳥類


 (第1話)1990年代に私は高校生になって大学生になった。高校3年から、萩原朔太郎の詩を読んでいた。岩波文庫(緑)の三好達治選『萩原朔太郎詩集』(1952、ここには1981改版)は、むかしの印刷の文字で、余白が多い。「曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(ルビ しほみづ)と、なよなよした海草が動いてゐた。」(「死なない蛸」)カバーに緑色が使われていることも、四角い水槽である
(第2話)すべての朔太郎の文庫を集めてはいないのだが、新潮文庫の河上徹太郎編『萩原朔太郎詩集』(1950、1967改版、2004改版。ここに3種類がある)は、大学のころから、いまでも、出かけるときに持っていることがある。「死なない蛸」もある。2004年の改版で、印刷の文字が新しくなった。それも新鮮な生きものなのだろう
(第3話)いわゆる〈文庫〉の大きさの本ではないけれど、思潮社の現代詩文庫(第Ⅱ期 近代詩人篇)の『萩原朔太郎詩集』(1975)は、表紙が白と、暗い青である。この色は、この近代詩人篇のシリーズは、すべて、そうである。朔太郎にも、大手拓次にも山村暮鳥にも宮澤賢治にも富永太郎にも吉田一穂にも草野心平にも、いい色であると思う(意外に西脇順三郎にも。しかし、立原道造には、明るい緑色が……)。「死なない蛸」はない
(第4話)岩波文庫の詩集と、現代詩文庫を集めはじめて、そして、大学は文学部に。中公文庫の「日本の詩歌」の1冊『萩原朔太郎』(1975)は、1つ1つの詩の下に、紫色の小さい文字で伊藤信吉が「鑑賞」を書いている。紫色も、朔太郎の詩と調和するようだ。詩「ぎたる弾くひと」の下に、「孤独な生活のたそがれにギターを鳴らし、」と書いてあって、私は、「ぎたる」がguitarであるのだと確信することができた(ギターのフランス語guitareは、発音がギタルに近いかもしれない)。「死なない蛸」もある
(第5話)集英社文庫の萩原朔太郎詩集『青猫』(1993)は、1923年の朔太郎の詩集『青猫』の詩だけの本ではなくて、他の詩集(『月に吠える』『氷島』など)の詩も選ばれていて、読める。本の最後のほうの内田康夫「鑑賞 ——朔太郎との遭遇」に、詩を読んで『「萩原朔太郎」の亡霊』を発想したことが書いてある。「映像が、ものの十秒たらずのあいだに、ぼくの脳髄を走り抜けていった。」この本に「死なない蛸」はない
(第6、7話)1990年代に朔太郎の文庫が、いくつか新しく出ていた。角川文庫の萩原朔太郎詩集『月に吠える』(1999)は、1917年の朔太郎の詩集『月に吠える』の詩だけではなくて、他の詩集の詩も選ばれていて、読める。角川文庫には『詩集 月に吠える』(1963、ここには1974年の「改版7版」。1917年の詩集の詩と、そして同じころの詩)もあって、1999年の本とは、なかみが違う。1999年の本に「死なない蛸」もある。1974年の本には、ない
(第8話)ハルキ文庫(角川春樹事務所)の『萩原朔太郎詩集』(1999)の詩のあとで、三木卓がエッセイ「才能と運命」を書いている。「人間には、できることとできないことがある。当人がいかにふがいないと自分のことを思っても、できないことはできない。わたしはこのごろそう考えるようになった」。20代前半(うまくいかないことが多かった)に、この文章を読んだことを記憶している。「死なない蛸」も読める



神殺し/ロープ・ウェイ

北上郷夏


洋菓子店の前で
  裸の少年とすれちがい
     一台の除雪車が楽園を滅ぼす、(アップルパイは
   まだ温かい、)……(出血量と広告量が一致した表情で…
……濡れた手を拭かないまま/胎児の鎖骨の重奏に冴え、)、
      人類が撤退したその街のなかで
               ペットショップだけが急速に
    増えていく…(冷酷に名詞化された少年の躰 を、
  押し花の練習台にしながら。……)「その年は、
全世界でただ一人も死者が出ませんでした。………
   学校でも… 国境でも…
      殺人現場でも… 誰も… ただ一人も………、」
…(抽象的な家具のような息づかいで、)
     執拗にホワイトニングされていく新兵たちの/影。
            雨、
    山羊の瞳に匂い立つ
      その一滴一滴が(口語訳されている……)
        (不自然に、)…。
     (軽妙に、)……。
    「あの日、
  楽園を追われた天使 をあつめて
     頭髪検査しよう………とても、苛烈な。」───
  冬の花……………
     (受話器のように立ち尽くしたまま
……それぞれが 鳥葬を研ぎ、
   ……螺旋していく田園を装いながら、
 (失語空間/…)から発注された神話を
           ひどく痩せた広告主に/納品する……/)
 ────( この美しい兵法の、なれのはてに)
   続々と三月生まれの僧侶たちが
 神殺しのキャッシュバック・キャンペーンに応募していく、
       「………………(笑)」
       「(笑)………(笑)」
       「(笑)(笑)(笑)」
     (避妊具を着けた微笑みで)────
……ほどなくして
 、(入念に美肌加工された/白い影のなかから)
     出血も広告も免除された、完璧な死者として
         今この場所で
         砕けるくらい
         蘇る。……「その年は、
 全世界、 から  たった一人 の
     死者  が    出まし……
   た   全人類は………
     それを報道すっ… るっ…  ために……
  彼の死因について書かれた一枚の原稿を、
        奪いあい
        殺しあいました………
   学校でも… 国境でも…
      殺人現場でも… 誰も… 一人残らず………、」



班馬

帛門臣昂

 
どこか、
そう、どこかの川のほとりで捨てられた
産着が復讐しにくる、吃って
いて(射手……)、叢る歯朶に
ああ
尋常ならざる鏡の時速如何!
咽喉に込み上げる鹿の頭部
は母ではなく、太陽の別名は太陽というほかなく、霜月の誰ひとり関知しない時間を屈葬遺体は駆けてゆく……鴨が、
看板のなかで溺れている少年を笑うが
私は確かに視た、星の眼を使って
視えた、無心に水を抜く湖から
班馬!
   班馬!
前夜、白鳥の首と恐るべき閂、坂をのぼりきり、のぼった先には皆(見んな)居る、虎の眼に犇めく彗星よ、今一度、静かに、微かに、思惟せよ、弑せよ、──途中、下半身だけを残して黎明に溶けていった妹がさまよう、私は(私は(私は、うん、私は早く、宇、間、零、すぎた、肉体は安全なだけの峻峰である、どこか川徹す、うんうん、まさか魂の全出力をもってしても時間不動! されど、言葉が、うんうんうん、稚い舌に生の甘さがこびりついて発語のたびに糸を引く、オマヘモ今日ヲ死ニユク一人、うん、うん、うん、で?──もう、行くことのない夢に椅子は整列し続けているし、歳晩の、顎骨鳴らし、名を問われ、やはり私の別名は私というほかなく、蹄に音なく帰るべき海、
水天彷彿、
天に鉄板千枚吊りさがり、
在ることは成ることの目前に封鎖され(歯科医院みたいだ)、ずっと
石(ici──)
に蹴躓いて、
でも
立って
行こう
がらんと
冬だ
班馬、その黒光りの濡れ身、鳴け
班馬、いつから班馬、
窶れた腱の隙間に
永遠が挟まっている、が



進物

小山 尚


「貸借」を拵えているのは誰。アルミニウム‐マグネシウム合金の什器と見紛うたなごころ一つが、三脚台と瀝青材の間で紅色に蹲り、「行動理念」や「根本的な性質」に従順な皓然たる颪へと内包されることを諾い、含羞の排除された単振り子として振舞う様子である。背後には比較的巨きな草を丁度三つ生やし続けることが義務付けられた幾人……。眼前には適度に肥えていた鶏(ペンギンである可能性も大いにある)を背中に固着させつつ彳亍てきちょくを繰り返す大勢……。よしんば煌めく手垢が澎湃たる跫音あのとによって零れ落ちようとも。
 
そこでメタリックな鳥喙を忙しなく開閉させるのは、その残像が現す枉げられた破顔は、何。
 
ただ一夜のためだけに、擾乱する熾火を生々しい未知数Xへ代入した後、碧落に消えた馴鹿(ペンギンである可能性も大いにある)。疏密な自由落下を強いられた手垢塗れの金亀子は、正八稜として二回のみ童子の眸子を掠め、果ては煤煙に潜む繊維質の緩衝材に弾力を思い出させる。雷光を漏洩し続ける有用な鼻腔よ。なるほどここでは呱々や哀切の類が尠少であることが適当なのであろう。
 
密語は未だ瀰漫している……。
 
手垢で霞む肖像、彎曲した角による懊悩、肉親に扼された一片の琺瑯……。これらは路地に放置された襤褸の顫動に点る蕭条しょうじょうである。白皙の幽邃の最中、生餌を掩蔽するくろがねをつつがなく焼入れすればおもむろに跼る艶冶な猫(ペンギンである可能性も大いにある)。このような落魄の身のために金属は囁くのだろうか。否、凍てついたはずのボウフラの群れが「H、0」と、ただ保存された音を繰り返すだけだ。
 
いじましい徹宵には黝い翁と凋んだ馬鈴薯と冷めた投擲物を。樅で頑是無い肉塊を叩き潰そうとする声が何処かで谺した……。
 
貪婪な蠟燭の揺らぎは乱流。玻璃戸のひかえめな手垢はこの間欠性によって喪失し、やがて奢侈が黙認される。そして梟(ペンギンである可能性も大いにある)は懶く巡る数多の終日ひねもすに背き、糧も惜しまず鳴くのだろう。(裡には「軋轢」を産出するための「非効率的な資源再分配」と0.7)
 
既に足許は沛然たる鏑矢に埋もれている。



どう見てもワオキツネザル

ジブラルタル峻


なんか、こう、ふわっとピータンです。
時間由来の風からモーメントがふるっと来ていることに、いち早く気づいたのはアメリカネムノキ(マメ科)でした。パキラだったパキラ(パンヤ科)は、いかにもリャマであり、にゅうめん宣言にパキラサインをします。
ナンナンナン、として、ハッピが溢れてハッピを着たまま、最終回の二話前にトリップしますトイカメラ(ほら、得意なことですし)。サマータイムが、ガッガッ(フリスビーのような肉塊)。時代偶像だ。ハッピ
ゆっくりと側頭葉をして、シンセサイザーサイザー探しに海/森へ、バッタン・バタンタ、バッタン・タンタタ(ループ)というおいしいフュージョンビートが、おしゃれにもたついています。ミズウオのメッセージを受けとったカブトクラゲ寄りのリズムパターンだ。アフリカントロトロとして拾って。トイカメラの海/森撮像に遠赤外線を。ハエトリソウも、ぐんぐんと。
ウォンバットは、誇張し過ぎたベローシファカのモノマネをしていますが、どう見てもワオキツネザルであり、その後プーアル茶を飲んだシンセサイザーが、夢の枕の真空に勤しんだ後の、楽譜の外の廊下を歩きますナマケモノが、肩を揺らして来ていました。

「では質問を変えます。ストロングスタイルのドーナツに、リトマス試験紙を与えて、2階のこんにゃく工場でミーティングをする場合、テントウムシの畳み眠りに宿った連続同心円のフュージョンステップが、食物繊維のロープウェーになるということですか?」
「記号カレーと絶対値ジャンケンをしているのでしょう片栗粉が、眠るときのような待ち針は、何を待っているのでしょうか?」

問いへの問いが奏でた無理数的なエレクトロニカは、テクノの目次と後書きの反作用の滑り込みのようなものだから、きわめてよい、とクビワペッカリーは前脚をことばの下に差し入れます。ネコザメ、うっとり。ウッカリカサゴ。



here

髙雄宥人

 
どこにでもかなしみはいつかにふれる
土の床、がらすの壁、にも
 
わたしの喉はひらかれて、わたしの肺はむきだしになる
おだやかな痛み、遠景に霊園ゆれては、ゆきついて、雲
どこ、ブルー
 
吐くとか、吐かないとか、流れて、わたしは、あなたになって、こどもの群れのスキップのなかにいる、草は汁にじませて、雨ははだかを撃って、翼、はじく空気のつぶを、楽にさせないわたしの、肥沃のくちびるで、文字は、つなぎとめられ、音のない合唱をきく
 
鹿のつの、鳥の髄、蕊、鮭の膵臓、たましいは不定形のロマンスにあり、ふたりはひとりになって、矢のようにあふれるぎゅぎゅんと、ぎゅんぎゅんぎゅんと、爪の先からスパンコールがもれる、よれる皮膚は、しあわせだからか、問いは、エンゼル・コール、なのか
 
ぼくの最期はいまあの電線をはしっている、ぼくの最期はいまあの塔へとたどりつき、はなたれてゆく、羊のようにかこわれて、とりもどされにゆく、さかなに、蟹に、ビールの泡に、クッキーに、いるのかい
 
ひあ、重みをなくしても、
ぜあ、羽毛は息を待って、
ひあ、わたしの女王のつばめはぼくを、
ぜあ、たましいの形骸だなんてからかって、
ひあ、に呼びとめないむくろ、
ぜあ、ぜあ、ぜあ
 
墓が、ある
名前が、あるということ
 
なにも、終えることはなく
朝は、ひかりということ
 
ひあ、ひあ、さよなら
海獣のひふはあたたかかったか?
 
巻き爪の、鴨のようなおんなのこが咳をした
とき、わたしはこんろのスイッチを押した
 
ぜあ



❝Pizza,❞ said Ghost

林 ケンジ

 
「*向かいの店でコーヒーを買った。(0:01:31)」、と
길 건너편에 커피집이 있어서(キル ゴノペネ コピチュビ イソソ)
コピ?(コーヒー) 快晴か、うっすらとする
『ホン・サンス(홍상수、洪常秀)は、『正しい日、間違えた日』という、映画を、ピザが、「幽霊ですから!」
猫缶のトリセツ。飛びたい、「鳥をチキンに変換しました。」型だった
ロボットだったからか、捏(コ)ねるしか、ぽつねん、とする(んだ)
サンヨウチュウは、トライロバイトともいいます、と『ニモ。』
 
「爪がのびてるよ、ピザですら。」コッピヨ(珈琲)×2が、
化石(カセキ)という、スナックノカタチ、(552)小野小町(おののこまち)
スッと、カード、からの鉄、空(KARA)の?
堅い・カタス・ギル、さんざん、綿棒らしく、三葉虫(白餡)は、豚肉由来原材料可・・・「ピンボンダッシュがやたらにね。」パートタイムの次しかない。グミより「ぶたにく。」のほうがいい。・・・と女性美術家ヒジョン、ピザだピザだピザだ・・・
 
「ジェニーも、言いました。」イイ?
「*バナナ牛乳です。(0:09:29)」 바나나우유예요(パナナウユエヨ)、と少(スコ)し小さい、ジェニー。数字は、映画『Right Now , Wrong Then』の、タイムスタンプ。*は、その時のセリフや、そのシーンにあったもの。それから、そこを右に
 
ボウリング場が、すぐそこですから、「*둥굴레차(ドゥングレ茶)(0:21:34)。」、と言いましょうよ、火星(화성 ファソン)、「藻。」あり、ましたありました
「ホームサラダバーのある予感。」音が、鳴るのを確認してから帰巣(キソウ)してくだ菜(さい)、もしくは犀(サイ)。「すっかり。」
「*おいしそうなナツメ(棗)茶ですね。(0:13: 21)」ロボ、もいます
 
詩人과農夫(0:36:26)(シイン クア ノンブ)という看板。是非、体を動かしてくださいね
 
「ヒジョンは김 민희(キム・ミニ)なんだよ。」、と笑います。ダルマニテス(さんようちゅう)、という、ポッキーと、電柱ですよね。並んでほしかった、米(ヨネ)
あぁ、この店もうすぐ潰れると思うの。「クリームコロネ。」しているの、だから、消費電力(顆粒)。遠くで、全自動もみ洗い機、火曜日にお茶点(た)てる化(か)

ジェニー セッ(ド)、あまりにも、キツイよサスペンダーが。あっちと、こっちと、石・焼き芋と(イシ・ヤキイモト)

フィリップシア(サンヨウチュウ)は、3週間も前から(まるで呪文のよう)「ねぇ、ブロンクスって強そうだよね。」と、森の中で、「*우유 마시는 것 같은데…(1:01:19)」ウユ マシヌン ゴッカトゥンデ 。(牛乳を飲んでいるようですが)、もういちど、と牛乳(ウユ)、なうあんどぜん、と『コ。』というヒトも、ネルというヒトも

 


その頃のわたしはよく家をさぼった、 意味をもたない骨格としてものごころばかり膨らんでいた頃

暇野鈴


(苔だらけの欄干へはねた白い飛沫が、
発つ鳥の不在をいっそう強く示している)
 
巴投げ
劇画のような効果線に乗せられ
側湾症のしせいのまま
速さが追いつくまでをただ待つ
 
できの良し悪しでなく、
フラフープ回すこどもの
分離する二つのからだ分だけ
重力はふくれ
 
所定の手続きを踏んでさえいれば
燃えたり回ったりする背のなかに
息づかいは正しく忘れられるものだった
 
 m/s
 
あまく
噴水が息巻いている
そこに転んでいるばかのこども
市境に
そういう雰囲気があることを
あとで思い出せないよう話すから
緻密な罰として
わたしは物乞いの塔を建てよう、
 
影と影 影と影 こんな具合に。
と影と と影と 
影と影 影と影
 木   木  
 
      m/s
 
まったくあなたの掌は角張っていて痛い
桃のネクターは今日も売り切れ
ものごころ
実際に膨らませて遊んだのはガムボールのほうで
足底に連れて帰る
 
ここからは長い滞留の時間
 
螺旋階段はひと息にのぼるから、
見下ろせば鳥の目に違いなかったのに   m/s



巣鴨

横井来季

 
*端居していろいろな舟が落ちてくる
樹形図が分かれゆく寿命の放射性炭素を
ほどきながら文字化けをする広辞苑
覆面の船長がホチキスの針を一本ずつ外す
*店の炉端の安部公房が泉を掘っているようだ
手鏡の奥、天然水を胃カメラに補充し
Zoomにひしめきながら囁きあうピロリ菌
昭和歌謡の歌詞を呟きつつ泳ぎだす
*五十音図を角切りしたら
歯並びの悪い犬歯に傷つけられた
舌先が北野天満宮のまえで合わさり一礼をする
 
*剽窃の言葉をちろりちろりと香らせながら
沈黙がようやく降りて来るのを待っていて
恋人の束縛があまりに力強くて引きちぎれて
テーブルの上の洋燈に亀虫が分裂しながら
増えて脱水して気化して
三葉虫の化石と交尾びだす
 
*新羅のau回線が平和堂までから回る
株価の乱高下のGに耐え
ファンケルの錠剤が
真昼の酸っぱいプールに浮かぶ
銘柄ごとに付箋を貼って
剥いだ途端にチャートがdown!し、
胸ポケットの流せるティッシュが
雨に崩れて粉々の蟲



どこから来たのかと訊く/奈良吟行歌集(十首)

ヨシダジャック

 
どこから来たのかと訊く。水門町を通って来たと答える。始まりについて訊きたいと言うと、わき水だったと答える。わたしも同じだとあなたは言う。「川のない橋、橋のない川、橋姫ひしめきあって笑う」朝町を通って来たと言う。その町はいつも朝か。夜を越えたところにあるのか。疑問に頭を抱える。わたしも同じだとあなたは言う。「食卓を転がる殻付きピーナッツ何だろう傾いているのは」見えるだろうか。空いっぱいの架空電線が。あなたにも見えるだろうか。架空ケーブルが。架空線をつつく女神のくちばしが。「鹿が来てまた鹿が来て占拠する東大寺二月堂の登廊」食堂の絵。縦長の構図。やさしい光とあたたかい色彩。慎ましやかな食べ物が並ぶ食卓。スープもある。食卓は静物ではない。「顔色の悪い女神がやって来た秋の夕暮れ」二人乗り自転車。前後に二つならんだハンドル。ペダルを踏めば円を描くホイール。なぜ退屈な円を描くのか。ストーカは並進運動に変換したくないと言う。パイロットは却下する。「東大寺唐招提寺薬師寺とさすらいながら老いてゆく鹿」詞書ではないとあなたは言う。時、所、事情などを説明するものではない。左注ではない。位置の問題ではない。注釈ではない。別伝、異伝や異聞を書き加えるものではないと。「きみ酔いて月凍てるころ正倉院宝庫に眠るブロンズの魚」街を眺める。錆が浮かんでいる。路面電車が通りすぎたあとか。剥げ落ちた錆が浮遊しているのか。舞い上がってゆけば元素周期律表の鉄へと帰っていけるのか。「ラッピングバスの阿修羅像まひるまの登大路に影を生みくる」いつ来ても夕暮れの町を歩く。路地には鳩に化けた植木鉢とランドセルに似せた郵便箱が並んでいる。歩いている場合ではないのか。走り出せばいいのか。イグアナに訊く。イグアナに化けたなにものかに。「凛凛と声響かせて参道を鹿と美しきとおめがね持つ人の行く」桃の実を描きたかった。桃の実を描くのは初めてだった。そう話すと、あなたは桃の種を描いてほしいと言った。桃の種を描くのは初めてだった。あなたと一緒に何かを食べるのは初めてだった。「パンノキをつつく啄木鳥/物語が他の物語ノキと語る夜ノキ」着信音がしたとき私は素数について考えていた。2や3や5が一杯に入った大きなバケツ、そして列をつくる7や11や13・・・。私が電話に出ると、大きな順に並べよという声が聞こえてきた。今、自分が考えていたことを言いあてられたような気がして笑い始める。「帰るのが惜しい奈良シネマの椅子の背のミッフィーの口のバッテン」左開きの本を作りたいとあなたは言う。本文が横書きなら珍しくはないと指摘すると、縦書きにすると言う。右縦書きなのか左縦書きなのかを質すと、一頁に一行だからどちらでもないのだと言う。歌集なのか?と訊く。遠くから歌が聞こえる。歌集なのか?
 



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編集後記

小笠原鳥類


 
壹岐悠太郎さんの詩が、なつかしい謎だ。こどものころに、このような話を、どこかで(私が)、聞いたこと、読んだことがあったのだろうか。何を言っているのか、わからないとしても(たくさん調べれば、わかってくることがあるのだとしても)、いつまでも、ここにいたいと思う。
 
現代詩では(すべての現代詩では、でもないが)、たくさんの〈もの〉たちが、小さい単語のように出現してくる。それらが、大きく〈まとまっていく〉のではないようで、小さいものたちが、細かくキラキラと、たくさん、いることの、喜び(そして、おそろしさ)。きのこ図鑑の、たくさんの写真の、たくさんの光っているものたちを見ているようである。
 
北上郷夏さんに初めて参加していただいた。現実から離れている言葉が、(現実を書いているはずの言葉よりも)現実を正確に書いているようで、おそろしい。崩れて、壊れて、ぼろぼろになっていく言葉が、〈ほんとうのこと〉を書いてしまう。そのような言葉が現代詩であるようなので、現代詩が、あってほしい。
 
帛門臣昂さんは、まっすぐに、生野菜を竹のように食べるように、水分が多いものを書く。おそろしい迫力だが、読んでいて(私は)絶望しなくて、生きられるなあと思えるのが、いい。
 
小山尚さんは、怒っている。小山尚という人が怒っているかどうかは、知らないが、たくさん勉強して(山村暮鳥を読んでいるのだろう)、濃く書き込まれた言葉が、怒っている。〈多くの人たちの言葉〉が生きやすい世界で、生きることが困難な〈少ない人たちの言葉〉が、私が読みたい詩である。
 
髙雄宥人さんの、ひらがなの多さが、おそろしい。やわらかい歌のようであるし、たのしさもあるとしても、こわい。それも〈ほんとうのこと〉なのだろう。
 
林ケンジさんが書くものは、たのしい。たのしいものを書くことが、安直なウソではなくて、言葉の1つ1つ(音、文字、単語、記号、文、段落のようなもの、空白)の細かい観察で実現してくるのが、信じられる音楽である。〈他の言葉〉の勉強で、言葉を細かく読んで書いて、詩が出現してくるのでもある。
 
暇野鈴さんは、やわらかい謎の言葉の、かなしみが出てきている。他のところには、ない言葉の、ここだけにある、さびしさであるだろう。私に〈意味〉が届いていないとしても、書いた人が〈意味〉をわかっていないとしても、言葉に、かなしみがある。
 
横井来季さんの言葉も怒っている……というより、今回、集まってきた詩が、どれも、怒っている言葉だ。「詩は怒りだ」と入沢康夫(2018年に亡くなった)が言ったけれど、いつか人類が滅亡するとすれば、入沢さんが詩を書いていたころよりも、いまのほうが滅亡は接近していて、どうすることも難しいことに対する怒りも、強くなっているだろう。細かいものたちが、文字になって単語になって1行1行になって、虫のように怒る。現代詩は正確な、時代の記録の言葉だ――生きている誰かが、あとで受け取るとすれば。
 
なかなか、たのしいものを書けない、書かれても信じられないようだけれど、今回、初めて書いていただいたヨシダジャックさんは、信じられる、たのしいものを書く。「」の中の、かたちを決めているような言葉と、「」の外の、説明でもない言葉とが、そして、どのようになっていくのか、謎なのか、いつか解明されるのか。
 
前回(6月の特別号)に書いていただいた人には、お休みの1人もいるけれど、書いていただいた。そして新しく北上郷夏さんとヨシダジャックさんに書いていただいている。このあとが、あるとすれば、どうするのか、考えたい。
 
ややもすれば、現代詩が、正しくて、つらいものになってしまい、それが〈ほんとう〉であることは否定できなくても、ここにはない別のものも考えたくなっている。いいものが集まっているのだが、〈これは、いくらなんでもダメだろう〉があってもよいのか(ないほうがいいかな)。

それから、おわびです。私の不手際で、いただいていたジブラルタル峻さんの原稿の掲載が遅れてしまいました。申し訳ありません。追加いたします。はじめて書いていただいている人です。ギリギリまで追い詰められた人間の叫びには、動物の名前がたくさん出てくるのだと思いながら、知らない動物の名前を調べる喜びもある。ウッカリカサゴについて調べていて、ここに未来があると思うことができた。


関連リンク

澪標   http://www.miotsukushi.co.jp /

∑詩ぐ魔(特別号2号)
――――――――――――――――――――――
発 行  2024年12月25日
責任編集 小笠原鳥類
発行人  松村信人 matsumura@miotsukushi.co.jp
協 力  山響堂pro.
発行所  澪標 

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