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【家族7人20日間のウズベキスタン🇺🇿旅行】 #5 再びタシケント

4月26日から5月15日まで敢行したウズベキスタン旅行について全5回にまとめました。カザフ人の妻と子ども5人(長女9歳、次女7歳、長男5歳、次男2歳、三男7ヶ月)と共にウズベキスタンを約2,000km旅して得た様々な事象と心象を綴っています。

<旅の日程>
4月26日〜5月1日朝@タシケント
5月1日〜5日午前@サマルカンド
5月5日午後〜9日朝@ブハラ
9日夕〜12日夕@ヒヴァ
13日朝〜15日昼@タシケント

滞在都市と周辺地図

前回の記事はこちら↓


本記事は、「#5 再びタシケント」として、5月13日から5月15日昼まで過ごしたタシケントでの彼是についてまとめたものです。

夜行列車

中央アジア、それもシルクロードを旅するなら夜行列車に乗りたかった。寝たら次の目的地に着くという旅の効率性が上がるだけでなく、旅は道連れ世は情けを経験する最適な移動手段だと考えていた。子ども達には、昼間ヒヴァ駅前の遊園地で思う存分遊んでもらい、程よい満足感と疲労を溜めてもらった。これで電車の中に平和が訪れるだろう。もちろん、それはあまりにも粗忽な皮算用だった。

ヒヴァ駅

ヒヴァを17時15分に発ち、タシケントに翌朝8時4分に着く列車に乗った。冷房付きの車両のはずだが、車内は暑かった。出発前は省エネのようだ。席には丸められたマットレスとシーツ、それに枕と枕カバー、掛けシーツにタオルが置かれていた。荷物をベッドの下に納め、子ども達がいつ寝落ちしてもいいようにベッドメイキングをした。アパートの大家の厚意でチェックアウトを16時まで伸ばしてもらい、シャワーを浴びてきたが、支度が整った頃にはすっかり体が汗ばんでいた。

ウルゲンチ駅

乗車前に購入したチョコが次男の口と手を茶色く染めた頃、ウルゲンチ駅に着いた。さらに乗客が乗り込んでくる。ローカルの乗客だけでなくバックパックやスーツケースを抱えた旅行客もいる。ホレズム地方に点在する都城跡を周遊する”カラまわり”していたのかなと想像すると一抹の悔しさが湧いてきた。
変わらぬ風景が続く農村地域を抜けるとアムダリヤ川が近づいてきた。往路に渡った鉄橋を復路は列車で通り過ぎた。不思議な感覚だ。キジル・クム砂漠の縁を東進する頃に夕暮れが訪れた。太陽の国ホレズムに沈む夕陽が空を赤く染めていた。

アムダリヤ川
黄昏のキジル・クム砂漠

感傷的な気分も束の間、その後は手持ち無沙汰で遊び回る子ども達を落ち着かせ、寝付かせることに腐心した。車内が消灯したのは22時を回っていた。ようやく寝かせられると思ったら、トイレに行き来する乗客がドアを悪気なくガチャンと閉めるので騒々しい。子ども達の動きを想定して端の区画を予約したが、トイレと逆側を取るべきだったと後悔した。娘達はすんなりと寝てくれたものの息子達はドアが開くたびに首を擡げた。特に次男と三男の寝かしつけは難攻を極めた。ようやく全員が寝たのは真夜中を過ぎた頃だった。上段ベッドから子どもが落ちないか心配な妻はなかなか寝付くことができなかった。

ひまわりの種を食べる子ども達

列車では2人のおじさんに声をかけられた。1人は42年ぶりの同窓会に参加してヒヴァからサマルカンドに戻る71歳の老人だ。すぐ隣の区画に席を取っていて、こちらが賑やかにしているので様子見がてら声をかけてくれた。社交辞令ではなく心から子沢山を祝福し、ベッドの上を遊具のように飛び回る子ども達を見て微笑みながら「今は大変でも時間はすぐ過ぎる。この子達も必ず立派な人間になる」と激励してくれた。親ですら手を焼いているのに、赤の他人がここまで言葉を尽くしてくれることがあるだろうか。サマルカンドには明け方4時ごろの到着だったため、ちゃんと別れはできなかった。
もう1人は、タシケント在住でこちらも初老の男性だった。娘の1人が婿と一緒に日本に住んでいるそうで、日本語が聞こえてきたので声をかけてみたという。ここであったのも縁だからタシケントに着いたら家に来てくれとお誘いを受けた。どうやらお酒を飲んで気分が高揚していたようだ。タシケント駅で妻が改めて挨拶したが長旅を互いに労ってお別れになった。

タシケントに到着した時、妻が言った。

「もう2度と列車の旅はしないわ」

上海からカザフスタンのアルマトイまで続くユーラシア鉄道に乗って、中国の西域を旅する僕の夢はどうなるの・・・とは言い返さなかった。
笑いながら言う妻を見て、まだ付け込む余地はあると踏んだから。

タシケント南駅


最後のプロフ

タシケントのアパートに戻ると、文字通り精魂尽き果てていた。残る滞在期間を無駄にはするまいと検討していた観光に行く余力は残っていなかった。唯一心残りなのは、日本人抑留者が建てたナヴォイ・オペラ・バレエ劇場と抑留者が眠る墓地および資料館に訪問できなかったことだ。劇場はウズベキスタン歴史博物館の側に、墓地と資料館はヒヴァからの列車が到着したタシケント南駅の近くにあり、個人的な関心はもとより、子ども達の学びの機会として訪れたいと考えていた。近くまで立ち寄ったにも関わらず、あと一歩足が向かなかったことは残念でならない。
心残りは、またいずれ別の機会に解消しよう。

プロフセンターまで行く気力がなかったが、タシケント風プロフは最後に食べたかったため、アパート近くにあるチャイハナに赴いた。アンホール運河沿いにあるアル・アズィズというお店だった。運河を渡る道路の橋下を利用し、噴水を囲んでテーブル席や伝統の小上がり席が並んでおり、開放感のある場所だった。平日の昼間は閑散としていたので、小上がりに座り、のんびり昼食を摂ることにした。

プロフは焼き上がりの時間に合わせて食べた方がいい。タシケントに到着した日、夕食に頼んだプロフは一日中使ったと思われる油が底に溜まり、黒く変色していたため、最後まで食べることはできなかった。アル・アズィズで注文したプロフは、開店して間も無く入ったこともあり、油は新鮮で肉も柔らかく、とても食べやすかった。写真にはないが、シャシリク(中央アジア風串焼き、香辛料がクセになる味)と合わせて、腹一杯になるまで食べた。子ども達は米の種類が日本と異なるため、プロフは最後まで苦手だったが、今回の旅でシャシリクにハマり、この日もバクバクと頬張っていた。

アル・アズィズ
牛肉がたっぷり乗ったプロフ
ナンとサムサ。旅行中、何度食べたことか
ミント入りのレモンティー。疲れた身体を癒し、喉を潤してくれる


旅の終わりに

最後の土産物を購入するため、私たちは気力を振り絞り、再びチョルスー・バザールに赴いた。主要観光都市を一巡りした上での感想だが、土産物はチョルスー・バザールに質・量ともに揃っており、価格も最もリーズナブルだった。赴いた先でこれだと思うものや、現地の職人が目の前で作る皿やコウノトリのハサミ、趣向の凝った絨毯などを購入するなら別だが、観光客向けに量産されている衣類や一般的な土産物であれば、旅の最後にチョルスー・バザールで購入するのが良いかもしれない。そもそも、雰囲気がいい。ウズベキスタンの玄関口として観光客をもてなす懐の深さが感じられる。私たちはおやつ代わりにイチゴや果物を買い、お土産にドライフルーツ4皿とハルヴァ2箱(胡麻、果物、穀物に油脂と砂糖を混ぜて作る中東地域の伝統菓子)、マグネットを購入した。

チョルスー・バザール再び
イチゴ。赤く着色されているのでよく洗ったほうがいい
4月にはなかった桑の実がバザールに並んでいた

14日の夜、私は今回の旅で世話になった友人とウズベク料理レストランで会食した。友人とは、ウズベキスタン入国の2日目に一度会っている。1歳半になる息子の割礼の儀が済み、そのお祝いを兼ねた会食に招いてくれたのだ。彼とはそれ以来2週間ぶりの再会となった。友人に今回の旅をアレンジしてくれた感謝を改めて伝えた。
旅の感想を聞かれ、苦労話や旅を通じて感じたウズベク人とカザフ人の類似性と差異に関して話した。ヒヴァで感じた格差について話が及んだ時、彼はウズベキスタンが抱える構造的な課題の一つがインフラ整備だと言った。道路、電気、ガスといった社会インフラだけでなく、流通網の整備や冷凍技術の有無がタシケントやサマルカンドといった主要都市と地方との格差を生んでいる。現大統領が進める積極的な開放政策は外国資本の投資を呼び込むものの、ホテルや高級マンションといった外資の直接的な利益につながる開発ばかり優先され、必要なインフラの整備が遅れていくのだという。現地で自分のビジネスを営む彼にとって、母国の成長に関わる課題は看過できないのだろう。

日本留学経験のある社長の建設会社が建てたアパート

また、観光業は年間1千万人とも言われるインバウンドを呼び込み、ウズベキスタンの産業を支えている一方、競争は激しく詐欺も横行しているという。今回、旅行会社を通じて宿泊先を押さえてくれたことに関しては、「自分1人で家族分の宿泊先を見つけるのは困難」であり、「ネット情報と実際の部屋が全く違うことはよくある」ため、日本の大学や企業を顧客に持つ友人の親戚の旅行会社を通じた部屋探しは正解だと言われた。旅をしながら薄々気づいていたが、大家族で、しかも幼い子どもを連れてウズベキスタンを旅行することは相当に困難であり、宿の手配は骨が折れる作業だったらしい。

「ウズベキスタンを気に入ってくれたことが何よりです」

という友人の言葉は暖かかった。
レストランを後にし、タクシーでアパートに向かった。別れ際、彼は家族7人での旅を労いつつ、私の肩を叩きながら言った。

「次は1人で来てくださいね」

どう答えたら良いかわからない。曖昧な笑みを浮かべながら、彼と別れた。

最後の夜、近くのホテルでライブがあり爆音が轟いていた


ありがとう、ウズベキスタン

15日、アパートのチェックアウトを済ませ、タクシーに乗り込んでタシケント空港に向かった。料金は27,000スムだったので57,000スムを手渡した。トランクから荷物を取り出したり、子ども達の安全に気を配ったりするため、車をすぐ降りたので受け取ったお釣りを確認しなかった。空港内でドルに再両替する時、お釣りが20,000スムしかないことに気づいた。してやられたことが悔しいが、もう笑うしかない。最後までウズベキスタン旅にまつわるお金の呪縛から解放されることはなかったようだ。

実は最も土産物にしたかったヘリコプター。太陽光パネルで充電し、プロペラが回る

娘たちにウズベキスタンでどの街が一番好きか尋ねてみた。ちょっと考えた後、2人とも「サマルカンド!」と答えた。レギスタン広場に並ぶメドレセの佇まい、それに壮麗なシャーヒズィンダ廟群やビビハニム・モスクのインパクトが強かったようだ。幼い息子たちがグズつく中、文句も垂れず毎日歩いてくれた娘たちには感謝しかない。魔法の絨毯やランプは買えなかったけれど、民族衣装を纏った乙嫁人形とシルクロードが描かれたTシャツを手土産にして満足したようだった。

ウズベキスタンは、本当に心に残る旅をもたらしてくれた。

私たち家族にとって、今回のウズベキスタン旅行は、純粋な意味で初めての海外旅行だった。カザフスタンは妻の母国であり、彼女の家族や親戚がいる。滞在時に様々なサポートをしてくれる頼るべき人がいる点で、私たち家族にとって紛れもない母国なのだ。
しかるに、20日間に渡って異国の地ウズベキスタンで子ども達とともに生活し、行動することは想定以上に困難を伴うものだった。特に私たち夫婦は、肉体的な疲れを癒す以上にメンタルを維持することに腐心した。旅を楽しむため、疲労と雑念に呑み込まれないよう、互いに努めたつもりだが、至らないところはたくさんあった。子ども達にも負担は大きかっただろう。

そんな旅の途中、心の支えとなったのはウズベキスタンの人々だった。子ども達と歩いていると、目が合えば声がかかり、赤の他人なのに「Молодец! (よくやった!)」「Счастливо!(幸せに!)」と子宝を我が事のように喜んでくれた。こちらがウズベク語を解さないことなど構うことなく、胸に手を当て祈りの言葉を詠んでくれる人もいた。何より嬉しいのは、そうした人たちが子を産み育てている妻を敬ってくれることだった。自分自身、見知らぬ年配の男性から「俺も子どもは多かった。子は宝だ。頑張れよ」と突然激励され、握手とハグを求められることもあった。階段でベビーカーを運ぼうとして、通りすがりの人が手を貸してくれることは自然な流れであり、地下鉄に乗るとこちらが気づくより先に席を譲ってくれた。露店の前でグズつく息子達に、売り物のおもちゃを与えてくれる女性もいた。私たちはただ感謝の言葉を伝えることしかできなかったが、一つ一つと言動が乾いた大地を潤す水のように心に深く染み渡るのを感じた。

どうしてこれほど心に突き刺さるのか。それは、あらゆる言動から底意の無い真心が伝わってくるからだ。この国で、社会的にも経済的にも不遇にに見える人ほど私たちに優しくしてくれた。そして、その見返りを求めない優しさは、あまねく私たち親子の心のそこにある「こうなったら助かるな」という無意識の願望を反映していた。ウズベキスタンの人々が持つ、心の豊かさと聡さを感じずにいられなかった。
もしかしたら、旅人だから、子連れだから得られた体験なのかもしれない。それでも、彼ら、彼女らにとって些細な振る舞いの連続が、私たち夫婦にどれほど勇気を与えてくれたかわからない。

そして、こうした出逢いを思い返して書き綴ることで「誰かの旅を追体験しているに過ぎないのではないか」という私の迷いはようやく払拭された。旅は自分(達)という主体・主観を通して他者や事象、史跡や風景に触れる時点で特別であり、そこに内的なストーリーが構成される過程こそ旅に出る意味だということに気づかせてくれたからだ。
体験を通じた一つ一つの巡り合わせは、自分だけの物語という大きな星座を構成する星だ。壮大な天文表を作り上げたウルグベクのように、巡り合わせの意味を問い続けながら旅の軌跡を信じて歩むことが、かけがえの無い物語を生むことに繋がるのだ。
たとえ、誰かと同じ旅路であっても、そこに経済的な価値交換が生まれなくても、いくら年齢を重ねていても、子どもが何人いようと、自分(たち)の心を満たす旅だと信じるなら一歩踏み出してみよう。
こんな思いを抱くことができたのが、今回の旅を通じた最大の収穫だった。


「また来よう、いつかきっと」

空港の出発ロビーで妻と子ども達に伝えた。二つ返事で「うん」と返ってきた。素晴らしい時間と体験を与えてくれたウズベキスタンに感謝を抱きながら、私たちはタシケント空港を発った。

霞むタシケントに別れを告げて
アラタウ山脈とアルマトゥイ郊外の絶景が迎えてくれた


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ちょっとした補足ーゾロアスター教の紋章

#4 ヒヴァ」で触れた、ゾロアスター教の紋章とまことしやかに語られるタイルについて調べてみると、どうも本当にそうらしい。

そもそも、ヒヴァはゾロアスター教と深い関係を持つ都市だったのだ。詳細は下記サイトにあるが、リボンのようなタイルは、蝶を模ったものだという。

<要点はこちら>
・ホラズムの王ヴィシュタスパが預言者ゾロアスターを保護
・その後預言者の故郷ペルシアで広まり、2世紀にはササン朝ペルシアの国境となった
・ホラズムでは7世紀にイスラム教が到来するまで支配的な宗教だった
・イスラム教による迫害や破壊はあってもゾロアスター教の伝統は維持された
・19世紀にヒヴァ・ハン国を訪れたハンガリー人旅行者はこう記す;
”ヒヴァはブハラほどイスラム教の教義を教えられていない。この状況は、ヒヴァのウズベク人が異教の多くの国民的慣習だけでなく、パーシー(ペルシャ、転じてゾロアスター教の意)の宗教的儀式も保持するという結果を生み出すのに大きな影響をもたらしている”
アルミニウス・ヴァンベリー - 中央アジア旅行 - 1864


言われたら蝶に見えてきた

またヒヴァにはアヴェスター博物館があることもわかった。アヴェスターはゾロアスター教の聖典であり、この聖典が古代ホレズム帝国に起源を持つという学者の説から、ヒヴァに博物館が設置されているという。何ということだ。行ったときに気づけよ、と自分に言いたくなる。


さらに、イランにあるゾロアスター教文化の中心地であるヤズドはヒヴァの姉妹都市であることも知った。数千年来の浅からぬ因縁は現代においても続いているようだ。

胡散臭い・・・なんて書いてごめんね、土産物屋のおじさん。

自らの知識の薄さを晒すようで恥ずかしいが、旅で抱いた謎をようやく解くことができて良かった。複層的に重なる中央アジアとイラン=ペルシアとの関わりも感じられるストーリーであり、やはりまたこの地に訪れたいという思いが強くなった。

今回は見るだけに終わった数々の土産物も私たちを彼の地に呼んでいる気がする


5回に渡って綴った【家族7人20日間のウズベキスタン🇺🇿旅行】は以上です。駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました!

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