9月の論理〈後編〉
第112話
さっさと片付けちゃいましょ。
誰も見てないんで。
「眠気と遠距離投射」
私たちは今を生きていると言えばそうだが、
同時になんらかの行為をする。
行為には起点と終点があり、その行為の最中は広い意味での"今"である。
眠い時はやる気が起きない。
やる気があるときなら、ボールを遠くに投げるイメージで
時間のかかる行為・面倒な行為も射程範囲、
すなわち"今"にできる。
眠い時は"今"が狭くなっているのだ。
また、この"今"が極限とるように0になったとき、
私たちは眠りにつく。
という仮説。
そこから、客観的時間に代わる新たな時間軸があるのでは、
と考えたが、そこで論は止まっている。
「戦略勝ちとみなす」
第101話に現れているのが、「戦略勝ちとみなす」態度。
過去の自分の行為を正当化しようとした。
「どうとでも書ける」
「シグナルミーン」や「戦略勝ちとみなす」、
また、指定校の志望理由書で薄々感じたタブー。
純粋さを打ち砕かれ、大人になっていく(?)。
「同じものの別の側面」
ある休日、またも勉強に手がつかず、暇をした。
それはまるで、第6クールの自堕落のようだった。
だし、
やる気が無いのはまるで第5クールのようでもある、
いや、あれほどではない(cf「あれほどではない」)か、
などなど考え、
もしかすると、
私自体の状態はあまり変わっていなく、
各クール、各状態形容名詞な
同じものの別の側面だったのでは、
という仮説。
この論もそんなに進んでない。
「アカツキステージ」
これは実は、新曲のタイトルにしようとしたもの。
けど歌詞もメロディも思い付いてないので、
第9クールは曲無し。
「レギュラー・イレギュラー論」にてレギュラーが肯定されたが、
こうすると人生に華がない。パッとしない。
生きる意味について考えてしまいそうだ。
それを打開すべく、自分に植え付けたいイメージが、「アカツキステージ」。
「アカツキ」とは言いうが、
選挙公約の「暁」ではなくただの明るいmoonのこと。
月が私を照らしてる。
自分の存在をわからせてくれるのだ。
『五月雨』や『理由青』の歌詞もそんな感じだった。
だから、
享受に焦り、自ら「花火」のように光ろうとするのは間違えだった
というわけだ。
そもそも月も自分から光ってるわけじゃないのだし。
「物語」「享受(謳歌)」「花火」「レギュラー・イレギュラー論」「アカツキステージ」の関係
(最後にこれをやって終わりです。)
上記5項の関係を整理しますと、
まず、
「物語」と「享受(謳歌)」は、前提となる"枠組み"。
「物語」と「享受(謳歌)」の中に
「花火」、「レギュラー・イレギュラー論」、「アカツキステージ」が
入っている。
次に、中に入っている3つの関係。
8月と9月の境、
「花火」に失敗し、「レギュラー・イレギュラー論」というのが出てきた。
そして長い9月を通して、最終的に「アカツキステージ」が良いものとされた。
弁証法だと思ってもらえればいい。
「花火」がテーゼ、「レギュラー・イレギュラー論」がアンチテーゼ、
そしてその2つを統合して、シンテーゼ:「アカツキステージ」に
至ったのだ。
終わり!!
もう誰も読んでないんで。
以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。