受験戦争とアイデンティズム③
前回↓
第119話
「悟り」についても話しておきましょう。
私の解釈ですが、
「悟り」とは「理解」の一種でありながら、その理解の度合いが段違いのもの
だと思います。どうでしょうか。
そこには"跳躍"があって、
論理を一つずつ追っていったってたどり着けない境地なんです。
"跳躍"について、
私はこんな経験を覚えています。
高1の現代国語の授業で、
芹沢俊介の「イノセンスの壊れる時」という文章を読みました。
ここでの「イノセンス」は
子供の、親に対する「産んでくれと頼んだ覚えがない」という
無罪・無責任の意味で、
人間として成熟していくとき、イノセンスが解体される。
人生の責任主体になる。
この時"跳躍"が起きている、と習いました。
跳躍といえどもそこには段階があるらしく、
①子供側のイノセンスの表出
②親の側のイノセンスの無条件の受け止め
③子供自身による自らのイノセンスの解体
というものだそう。
これを習った当時の私は、
②と③に因果関係が見られなくてすごくモヤモヤしていました。
今思えば、だからこその"跳躍"なのですが、
当時の私は何でも頑張れば理解できると思っていたので、
跳躍に論理の連続性を求めて自滅していたのです。
論理の連続性から離れることこそが"悟り"なのかもしれません。
有名な話で、
「諦める」の語源は「明らめる=明らかにする(=悟りの境地)」
って言うじゃないですか。
そういうことなんだと思います。
そういうわけで、
私は「悟り」が何だかが分かりました。
(悟ったわけではありませんのでそこは間違えないでもらって。)
それは自分が跳躍によって自分じゃなくなること。
一応、受験戦争の比喩を用いるなら
国の指導者が代わるとかなんですけど、
如何せんここにもサイズ変更による矛盾がありまして、
自分の中の指導者が代わるというのは違和感があります。
が、ここで最中論を引き合いに出してみると、
直感的に理解できると思います。
無我夢中という言葉があるように、
何かに没頭してるときって
「自分が自分である、ここにいる」という感覚が無いじゃないですか。
哲学者ハンナ・アレントの言う
孤絶(アイソレーション)の状態にあたると思います。
「文章を書きながら、仕事をしているときには、わたしは自己と対話することも、他者と対話することもできない」(中山元『アレント入門』より)
まぁたまたまこの間、現国の授業でやっただけなんですが。
自分が自分でなくなるなんて論理的理解はし難いですが、
私たちは"最中(集中)"という形で何度も体験してるんです。
または、睡眠。
私の『最中論』の最後にあるように
睡眠って一番自我を失えてるんで、一番の最中だと。
それらのような"最中"に自分の主導権を取られ、
それが長く続くと、
そっち側の自分で揺るぎないアイデンティティーが形成されるんです。
そうやって自分がまとまることで、受験戦争に勝つことができる。
…
勝った後どうするんですかね?(素朴な疑問)
以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。