聖書は弱者を突き抜けた弱者に変えるのか。
最近、三浦綾子の全集を読もうと、氷点を読み始めた。
なんだか昼ドラみたいな設定だな、と思いながら、読んでいると、登場人物の不倫された医師である夫が、
「汝の敵を愛せ」
について、頭を悩ませている。
三浦綾子の作品は、聖書の言葉がたびたび出てくる。
私の乏しい、聖書に関する知識では、
「左の頬を打たれたら、右の頬も差し出しなさい」
のような、なかなか人に真似できないようなことが、奨励されている。
確かに真似できない。
私は、反撃のない人間は味の消えないチューイングガムになってしまうと思っている。
弱者は、延々と攻撃を受け続けてしまう。
それを、聖書では是としている。
ニーチェはキリスト教を弱者の宗教であり、奴隷の道徳と言った。
私は、まさしくそうだと思った。
しかし、ただの弱者ではないとも思った。
突き抜けた弱者。
弱さというのは、本来受け入れがたいもの。
敵ができれば憎むし、左の頬を殴られれば殴り返せないことにもやもやする。
聖書では、「むしろ愛せ」「むしろ右の頬も差し出してしまえ」と、弱さを肯定する。
受け入れがたい、弱くみじめな自分を受け入れる助けに聖書はなるのか。
すべての苦しみはまず、受け入れることを説く仏教に通じるな、と思った。
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