見出し画像

見えないものが見えてきた「心の旅」京都茶の湯ツアー・・ロボティクス研究者の受動意識仮説を読み解く

「心の旅」京都茶の湯ツアーで、見えないものが見えてきた!何が見えてきたのか興味があるところである。それを紐解いていくことにする。茶の湯を始めて「脳と心」に興味を持ち、その書物を読み進んでいくと、衝撃の言葉に出会った。「心は脳がつくりあげた幻想である」・・・

前野隆司著:脳はなぜ「心」を作ったのか(ちくま文庫)

1.脳と心に興味を持った訳(その一)


私がこの本に興味を持った第一の理由は、グーグルの日本法人初代社長の村上憲郎さんの著書「クオンタム思考」の中に、「自己意識」を持ったAIを作るための達成プロセスに欠かせない考え方が、受動意識仮説だと言う。

村上憲郎著:日経BP クオンタむム思考

AIの構築は、これまで、AIに自己意識を持たせることための手法として「司令塔」づくりを目指して、失敗してきました。一方で、受動意識仮説に基づいてAIを構築するなら、さまざまな部分機能を果たす要素の集まりをつくり、その後の機能要素が出力してくるアウトプットをただ観測している、「観測者」をつくればいいということになります。(本文P178)

村上憲郎著:日経BP クオンタむム思考

AIに自己意識を持たせ、課題解決する「受動意識仮説」とは、どんな仮説なんでしょうか?

意識主体の「私」は眺めているだけ


私たちは、自由意思を持って決定するけれども、実はこれは幻想・錯覚だという。

脳が「無意識」(ニューラルネットワーク)のうちに判断 / 行動し、後から「意識」が後付けされているということである。(受動意識仮説)

「なぜ会話する相手の声は口から聞こえるのか?」・・考えてみると、たしかに不思議なことだ。

「意識」は、「無意識」の結果をまとめた受動体験を、あたかも主体的な体験であるかのように幻想・錯覚するシステムと言われても、最初は納得できなかった。

2.脳と心に興味を持った訳(その2)


「意識」とは、あたかも心というものが、リアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている「幻想」だという前野教授は、釈迦の思想と「受動意識仮説」は似ている点があると述べている。これまた、驚きであった。

釈迦のいう「無我」は、私は「我ではない(非我)」だと思う。五蘊非我(ごうんひが)という言葉がある。五蘊は、五つの心の働き、すなわち、色受想行識を表す。色は身体、受想行識は様々な心の作用なので、五蘊は、身体と心の働きという意味だ。したがって、私たちの身体と心の働きは、我(私たちの意識)のつかさどるところではない、という意味になる。

つまり、意識は、行為の主体ではない、ということであり、私の主張ーー行為の主体は、無意識小びとたちの自律分散演算の側にあり、意識の側にない。ーーと全く同じだ。(本文)

前野教授の「受動意識仮説」と釈迦の「無我」は、同じだと知り、衝撃を受けた。

と同時に。茶の湯の真髄が何たるかを益々知りたくなった。そして、

マインドフルネス(瞑想)や禅、そして座禅との関連が頭の中をよぎった。

3.マインドフルネス、禅と釈迦の関係


①海外を中心に広がっている「マインドフルネス」は、「禅の瞑想法」が土台になっている。
②「禅」とは、仏教の創始者である釈迦が修行した修行法であり、「座禅」は、瞑想の果てに真理を悟ったその修行法を使って座ることを指している。

③釈迦は「自己意識」は、幻想のようなものとしたが、自己意識は存在するという考え方は、常見(じょうけん)、その後、「唯識」と発展し、現在では「ヨーガ」によって境地に達する。

又、自己意識はは存在しないという考え方は、断言(だんげん)といい、その後の中観(ちゅうがん)という思想に繋がると言われている。(本文)

4.禅茶一味の世界を垣間見たい


冒頭の書き出し「心の旅京都茶の湯ツアーで、見えないものが見えてきた!」に話を戻そう。

「意識」とは、あたかも心というものが、リアルに存在するかのように、脳が私たちに思わせている「幻想」のようなものでしかない。

この視点で、「心の旅京都茶の湯ツアー」で見えないものが見えてきたことが何だったかを振り返ってみたい。

①高山寺は「茶の発祥の地」


高山寺を訪れた頃、桜の季節が終わりをつげ、新緑の木々を見ていると、春の風が気持ちよく頬を撫でていく。
明恵(みょうえ)上人や、鳥獣戯画、茶の発祥の地に踏み入れた。清々しい気分で「石水院」で胸いっぱい美味しい空気を吸った。

石水院にて

「明恵(みょうえ)上人」は、鎌倉時代の臨済宗開祖で禅僧「栄西」禅師から、

宋より持ち帰った茶の種を贈られ、栂尾(とがのお)の地で栽培を始めた。
そしてこの茶が宇治へと伝わり、全国各地へ広まった。

茶の湯を志すもの、一度は訪れたい場所(高山寺)である。明恵上人が茶の栽培をしなかったら、茶の湯の文化はどうなっていたのだろう?

戦国時代の信長や秀吉に茶頭として仕えた千利休の茶の湯文化は、栄えたのであろうか・・・

ねっとりしたお濃茶を点てる茶事は、出来たんだろうかと思い巡らす心の旅であった。

茶園には、茶の新芽が朝陽に眩しく輝いて、新茶の季節到来を告げていた。

見えないものが見えてきた①

明恵上人が信じたのは、悟り型の「釈迦」であり、彼が夢を記した「夢記」があるが、実物を見ることが叶わなかった。

この「夢記」こそ、明恵上人の修行の過程を綴ったもの、直観ですが、悟りの境地が、夢となったのではないか・・・

即ち、「無意識」(ニューラルネットワークという小人たち)の行動が、悟りのプロセスとして、夢になった。釈迦が言う「五蘊非我(ごうんひが)」・「無我」「私ではない」に繋がってくる。

「心は脳がつくりあげた幻想である」という「受動意識仮説」の視点で明恵上人を読み解くと見えてくるものがあった。

補足:西洋医学者の中には、瞑想や禅によって到達する特殊な意識状態は、病的な状態だと考えるものもいる。五感からの感覚性クオリアを遮断し続けると、自分と外部とのつながりを失った脳は、白日夢を見るような病的な状態に陥ったとしても不思議でない。(P86)

前野隆司著  脳の中の「私」はなぜみつからないのか? 技術評論社         


②大徳寺瑞峯院での座禅


茶の湯を志す者にとって、京都茶の湯ツアー最大のイベントは、茶道と縁が深い大徳寺「瑞峰院」、そこで座禅と法話を聴くことであった。

3年前に訪れたときは、観光気分で抹茶をいただいただけで、座禅はできなかった。

今回は、茶の湯のお稽古をとおして、「禅茶一味」の世界を知りたくて、今年から「瞑想」を続けている。

和尚さんと一緒に本堂での「座禅」、緊張感もなく心地よい時間が過ぎ去っていく。

静寂の中、気分爽快であった。その瞬間、頭の中に釈迦の至った悟りの境地、「無我」が蘇った。

「色即是空、空即是色」(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
また、釈迦の言葉ではないが、
般若心経というお経の大事な一節です。
色、つまり、心に表出するさまざまなクオリアは、それすなわち、空虚であって、幻想のようなものである。何もない幻想のようなものとは、すなわち、色ーーさまざまなクオリアなのである。(本文P78)

前野隆司著  脳の中の「私」はなぜみつからないのか? 技術評論社 

5.禅茶一味の世界

茶道の根幹は禅がある(茶道とは本来の自己を発見すること)

吉信白雲 監修 禅茶録 知泉書館


大徳寺の一休和尚は、「茶道の根幹には禅がある」と見出された。
「茶を点てる」という行為の中に禅意識を取り込み、人々のために、本来の自己を覚る道、「茶道」となったわけです。(本文P4)

茶を点てることは、まったく禅の修行と同じで、自己の本性を会得一つの方法論なのです。禅では、座禅という方法で悟りを目指すように、茶道では、茶を点てるという方法を用いる(本文P5)

茶道は、茶器を扱うとき、「三昧ざんまい」(無心で茶器そのものになりきる)の境地に入り、自性(本来の自己)を悟るという修行なのです。茶事によって自性をもとめるという工夫は、他でもなく、雑念を一切交えず、心を一点に集中し、一心に茶器を扱うこと「気続点・きぞくだて」で、「三昧」の境地に入ることをいいます。(本文P10)

吉信白雲 監修 禅茶録 知泉書館    

見えないものが見えてきた②


・座禅を通して、見えてきたもの、釈迦の「無我」の境地が少し頭で理解できるようになった。

・「禅」とは、仏教の創始者である釈迦が,瞑想の果てに真理を悟ることのために、「座禅」という方法で行う。

・茶道とは本来の自己を発見すること、言い換えれば、「茶を点てること」は、まったく禅の修行と同じで、自己の本性を会得一つの方法論なのです。

和尚さんの言葉が脳裏に蘇った。

人は、自然に生かされている。

自分が今あるのは、ご先祖様に感謝すること。

自分の人生とは、自らを分かって人生を生かす。

閑眠庭(十字架の庭)

重森三玲の作庭による枯山水庭園“独坐庭”、“閑眠庭(十字架の庭)を案内され、圧巻は、国宝茶室「待庵」の写しである“平成待庵”を拝見できたことである。

室町時代の1535年(天文4年)にキリシタン大名としても知られた戦国大名・大友宗麟が大友家の菩提寺として創建され、

閑眠庭(十字架の庭)は、縦に4つ、横3つの石を配し十字架を表したもの。

利休が活躍した450年前の戦国時代、茶の湯の世界で流行った「市中の山居」は、禅宗とキリスト教が混在した世でもあった。

見えないものが見えてきた③


ツアー初日、夜も更けた船岡温泉の帰り、私を含めた3人で、ハーブ類を使った自家製リキュールやカクテルを楽しめるお店「喫酒 幾星」に入った。

喫酒 幾星

示し合わせて決めたわけでもなく、3人は、このお店に吸い込まれていった。

これは、奇跡が起こったと感じた。


それは、今回の心の旅京都茶の湯ツアーの視点、「受動意識仮説」の「無意識」であるニューラルネットワークが意思決定して、一緒に行動を起こし、


お店で、今、感じてるクオリアを共有したいとの「意識」があったように思える。


その理由は、3人は、「座禅」や「瞑想」を習慣とされており、「意識」と「無意識」、潜在意識、純粋意識、自己意識の存在に関心があった。


さらに、その日は、高山寺で日本最古の茶園、明恵上人の修行の話、大徳寺瑞峯院での座禅の体験から、「無意識」の小人たちの働きで、


五感で感じ取った「心の質感であるクオリア」が沸き上がったからだと思われる。


私は、以前から「純粋意識」が気になりお茶の先生に尋ね、人生との関わりを聞くことができた。


もう一人、「ヨガ」インストラクターの経験がある友は、大徳寺でいただいた「御朱印帳」の「ご縁」の言葉と「それで自分は生かされている」と和尚様から言われ、納得し、感動されていた。

3人が、事前の申し合わせではなく、お店で、ハーブのカクテルを飲みながら人生を語り合う光景は、まさに「ご縁」であり「奇跡」としか思えなかった。


このツアーに参加したのも、各自の「無意識」の中で意思決定して、それがクオリアとして出てきたのを、後付けで「意識」が自分の意志でやったようにみせている幻想だと思われる。

言い換えると、茶の湯を志すもの、「茶道とは本来の自己を発見すること」を、各人が心の何処かに持っていたからである。

カクテルに多少酔いながら、満たされた気持ち(クオリア)で、これも幻想かとお店を後にした。

心の旅とは

「心の旅」京都茶の湯ツアーから、今まで見えないものが見えてきた。

AIに「自己意識」をもたせるためには、受動意識仮説が必要だ。それは「意識」は「無意識」に対して受動的であり、「意識」は幻想のようなものであるという。

この仮説は、お釈迦さまの悟りのプロセスと同様で、「座禅」をとおして修行し、茶道は「茶を点てる」ことをとおして、本来の自己を発見することに繋がって、腑に落ちてきた。

まさに、「禅茶一味」「茶禅一味」の世界が広がっていく。なんて素晴らしい世界だろう。

今回の京都茶の湯ツアーは、企画された茶の湯の水上先生、京都在住の加藤尚子様に感謝すると共に、私にとっては、自分を見つめる場を提供して頂き、更なる茶の湯に精進する糧となりました。