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命を生きて、めぐる。〜長谷川あゆみさん〜

わたしが感じたあなたを切り取り綴るshutter
ご依頼者様と対談して感じたこと、そのお人柄や魅力をお伝えする企画です。

今回ご紹介するのは、岐阜県からわざわざ鎌倉までお越しくださった、看護師でもあり、現在育休中で4人のお子さんのお母さんでもあり、そして「死」終わりを見つめる人でもある、長谷川あゆみさんです。

30代から40代になると、少しずつ増えてくるのが、「周りの誰かの死」かもしれません。

あなたにとって「死」とは、なんでしょうか。

あゆみさんは私になかった視点・・・・なかったわけではないけれど、でも、そこに一番にフォーカスを持ってくることはなかっただろう、「死」についての定義を持っておられる方でした。

「死」という「終わり」に惹かれたあゆみさんのストーリーを今回は綴ります。


◆私たちは大いなりめぐりの中で生きている


IT系の専門学校に行かれたものの、「これを仕事にしようとは思わない」と気づいてしまったあゆみさん。

自分の人生について考えた時に、海外に行こう!と決意。ワーキングホリデーでニュージーランドへ。

そこでのステイ先が、ほぼ自給自足の生活だったそう。

牛や山羊、犬や鶏がいて、食べるものは自分たちで育てたもの。

自分たちで作ったお野菜と、近くの農家さんの牛乳を交換することもあれば、住まいのものも全て手作り。

ステイ先のその家は、土や藁(だったかな・・・)といった身の回りの自然原料を混ぜ合わせてレンガを作り、それを元にゲストハウスを建てていて、当時のあゆみさんは、WWOOFer の仕組みを利用して、レンガを作ることを手伝う代わりに、そこに住まわせてもらっていたそう。

そこにあったコンポスト。

自分たちの生活から出た生ゴミや廃棄物を入れておくと堆肥になる、その容器のそばにいた、蛆虫やミミズを見たあゆみさん。

虫は、好きじゃない。

でも。

自分が好きじゃないと言っている、この蛆虫やミミズを、鶏が餌に食べていて、その鶏肉を、食事として、自分がいただいている。

つまりは、私だって、ある意味、蛆虫やミミズを食べていることになるんだ。好きじゃないとか言ってたけど、そういうことじゃないんだ。

そこに気づいた時に、「命のめぐり」というものを体感されたそうです。

すべてのものは、巡っているんだ。と。

それは、ただ綺麗なもの、美しいものだけではなくて、一見自分では好きと思えないもの、嫌なものや苦手なもの、嫌いなものだって、その大いなるめぐりの中の一つ。

だとしたら否定されるべきものなんて何もないし、それは、私という存在に対しても言えることなんじゃないか。

どんな感情であっても、それは「私の一部でありめぐりの中の大切な要素の一つ」

そんなことを、言葉を超えた体感として理解したのが、ニュージーランドでの経験。

以来、「循環」ということが、あゆみさんにとって一つの大切なキーワードになったそう。

命は、あらゆるすべてを内包してめぐっているのなら、私から生まれるものもすべて必要だし、豊かさが巡るものであって欲しい、と。

「包括」と「循環」生きとし生けるものの、原点、その本質を捉えた出来事だったのかも、しれません。

命の原点となるような体験をしたニュージーランドから帰国後、もう一つのあゆみさんのターニングポイントとなる出会いがやってきます。

それまでに色々なお仕事をされたというあゆみさん。

福祉施設で事務職として働いていた時に出会った看護師さんが言った「看護師は、魂で対話する」という言葉。

言葉を超えて、もっともっと、深いところでコミュニケートする。人と、繋がる。

私も、こんなふうに人と繋がりたいんだ。

この一言が、あゆみさんの中でストンと腑に落ちになり、看護師になろうと決意。

27歳から看護学校に通い、看護師になり、病棟勤務へ。現在では結婚を経て授かった3人のお子さんの育休中。

27歳からもう一度看護学校に通って看護師になろうと思った、その理由の一つに、看取りができる訪問看護の仕事がしたい、という想いがあったとのこと。

その理由が、私にとっては少しびっくりするものでした。



◆死に魅了された


グループホーム併設の施設で事務職として働いていたあゆみさん。
直接介護に携わるものはないものの、日々施設の利用者さんの名前を見たり書いたりしていくうちに、顔がわからなくても名前はすっかり覚えていく。

ある日、一人の利用者さんがお亡くなりになった時のこと。

直接関わることがなくても、名前は知っていたその人。

命が終わり、亡くなったというのに、心は動かず、自分ごとにはできなかったあゆみさん。
私は、心がないのだろうか・・・そんなことを思っていた、後日。

亡くなった方と近しい関係にあった方が施設を訪れ、思い出話をしていた時


もう、会えない・・・・。


突然、その方が嗚咽と共に号泣されたそうです。
亡くなったその方の死、その悼みが溢れるかのように。


その時の情景は、今でもはっきりと覚えているといったあゆみさん。

夕刻で、窓の外の夕日が美しくて、そしてあたたかった。

自分ごとにはできなかったその方の死を
誰かが悲しむ姿を目の当たりにして初めて、感受し、理解することが、できた。

それは、自分にとって親い人の死ではなかったからこそ、思えたことなのかもしれません。

死とは、その喪失を悼む人があって初めて成り立つもの

そして

死を悼むその心の反対には、悼みと同じ、もしくはそれ以上の「愛しさ」がある

死は、喪失の悲しみだけではなく、あたたかいものでさえあるのだと感じた。

死は、喪失の悲しみでありながら、生きて愛し、愛された証でもある

あの瞬間から、あゆみさんは「死というものに魅了された」そうです。

「こんなことを言ったら、死をそんなふうに扱うなんてという人がいるのはもちろん踏まえた上で」
「死というのは、なかなか表立って取り上げられることがないテーマではあるけれども」


そう、付け加えた後で、あゆみさんはおっしゃいました。

誰かが亡くなることで、周りの人は悲しんだり悔やんだりする。
でもそれは、決して喪失の悲しみだけではなく、愛し愛されていたあたたかみの証でもあって。
死というのはある意味、こんなにも大きく人の感情を揺るがす、人生最後の一大エンターテイメントでもあると言えるんじゃないかと。

だとしたら、その死を、どう迎えたいかを考えることにだって、大きな価値があるし、人はいつか亡くなる、それは誰にも避けられないものであるならば「死から生・・・どう終わりを迎えたいか、そのためにどう生きたいか」を、もっと考えてもいいし、そういう機会をもったほうがいいんじゃないか

だからこそあゆみさんは現在、「死という終わりから「今をどう生きるか」を見つめ直す」ということをライフワークの一つにされているし、

自分の死を体感する“看取られ体験”ワークショップも、されていて。

当たり前にこの「生きる時間」が続くのではなく、いつかそれはからなず終わりが来るし、いつ来るかは誰にもわからない。

だけど多くの人は「死」というものを自分ごとにしたがらないし、どこか遠くの出来事のように思い、死から目を逸らし、漫然とした今日を生きてしまう。

でも、そうじゃない。

終わりは来るんだから。永遠の命なんて、ない。

死は、誰の身にもあること。だとしたら、もっともっと、この命は「限りあるかけがえのないもの」と自覚して、今日という日を、豊かさを巡らせる循環の中で私は精一杯生きたい。

好きなこと、興味を持ったことに手を伸ばし、まだ知らなかったことを体験して味わい、この自分の命の糧にして、成長、向上していきたい。

終わりから生きることを、そこから、目を背けたくない。
終わりがあるからこそ、生き尽くしたい。

あゆみさんは、そんな気持ちを持ってらっしゃる。



こんなこと言ったら失礼だって言われるかもしれないけれど、と付け加えながら話してくれた「死とはエンターテイメントである」という言葉。

これまでに、同級生の死、身内の死を経験し、なくなるその瞬間の看取りや、ついこの間まで生きていた人が火葬されて骨になっていくことを見たことがある私は、正直、この一言にちょっと面食らってしまった。

死とはエンターテイメントである・・・・・・・・・

なかなかに、すごいパワーワードだなぁ・・・・
すんなり、エンターテイメントって、私は言えるだろうか、理解できるだろうか・・・

身近な人の死を体験したからこそ、それをエンターテイメントだ、という一言に表現することは、正直、憚られてしまう。

【エンターテイメント:entertainment】
英和辞典を引くと「もてなし、歓待、宴会やパーティー、娯楽、気晴らし」
そんな意味が書かれている。

その語彙のままに、死がエンターテイメント・・・もてなしや宴、娯楽と、心底思えるかというと・・・・

むーん。そうか・・・・・大胆というか自由というか、そういう視点や考え方も、あるのかもしれない。

あれから私の中では、強烈に残った「死とはエンターテイメントである」という言葉が思い出されては、なんとなくそれについて、考えてしまっていたし

あの日、あゆみさんが私に教えてくれたさまざまの話から、感じたこと、お会いしてからずっと、味わってみたり、じっと、その味わいの奥を、感じてみたり、するのだけれども。

あの日、しらす丼をいただきながら、あゆみさんが教えてくださったこと。

ご家族とも仲は悪いわけではないけれども、ただ・・・・父親には信じる宗教があって、と教えてくれた、あゆみさん。

その宗教の教えは、「教えを信じ守り続けるものは救われ、この地上は楽園となり、永遠に生き続けることができる」というものだった。

お父様のことは好きだったし、洗礼も受けたけれど、お父様が信じるその宗教の教えは、あゆみさんにとっては、心の救いや支えとなるものではなく、むしろ・・・
「永遠に生き続けるなんて、終わりのない命の方が、私は苦しいし嫌だ」と思ったそう。

そんなあゆみさんのことを、お父様もお母様も否定はしなかったし、大切に育ててくれたとは思うけれど、ただ、お父様は「宗教に関しては失敗した」と言った、そうで。

きっと、お父様は、大事な、愛する娘だったからこそ、自らが心の真ん中に置いて何より信じ続ける、生きる軸となくその教えを、あゆみさんが生きる支えにして欲しかったのかもしれない。幸せになるために。

だからこそ、それが受け入れられなかったことが、残念で、そんな言葉が出てしまったのかも、しれないけれど。

あゆみさんが「死」に魅了され、そして、魅了され続けているそこには、今回の対談を通して、私はどこかで「お父様との間にある愛情」を感じずにはいられません。

(あゆみさんが今回の対談をわたし(あそゆか)からみた自分を見てみたかったとおっしゃったので、心置きなく書かせていただきます)

永遠の命を授かれるからこそ、その教えを信じ守り幸せに生きようとする父と
  
永遠の命なんてない、この命は、この名において授かった、一度きりの人生で、寿命は必ずあり、尽きる日が来るし、そうして尽きる日が、終わりがあるからこそ、私はこの生を全うしたい。心のままに未知なる世界を体験し、味わい、生き切りたいと切望する娘。

でも、二人とも、「生きたい」のですよね。きっと。幸せに。

そのルートは違えど、「幸せに生きること」を、心の真ん中に置いて生きてきた。

永遠の命と有限の死。

相反するようで、でも、求めているものは、きっと、同じ。

幸せに、生きること。
自らの信じるものとともに。

そしてやっぱり、願い祈るのだと思う。

愛する人、大切な人にも。

生きてほしい
どうか
幸せに、愛され、豊かに、生きてほしいと。

あゆみさんは、あゆみさんの想いにおいて

限りある命だと思うからこそ
「終わりから描く生」によってこそ
人は、その命の輝きを、煌めき尽くせると、思っているのかもしれない。

それは、もしかしたら
  
あの、ニュージーランドで「循環」を体感したように

私たちのこの命も、全てが内包されながら巡っていて
この命と、その経験が
誰かや何かの命にもし繋がっていくのだとしたならば

この命が終わるときでさえ
次なる何か、めぐりにつなぐそのバトンは

大いなる滋養と糧になるようなものでありたい

だからこそ

この命を、心のままに感じたままに
生き尽くし味わい尽くしてこの身に染み込ませたい

あらゆる経験を
あらゆる感情を
あらゆる関係を

そのすべてを

味わい味わい
私の滋養に、糧に変えていく。

終わりがあるから、生きていく。


終わりの時に、
誰かに、
遺される人に

悲しさだけではなく、悼みだけではなく
愛し愛され
心と心が、繋がりあい、感じあった

言葉や目に見えるものさえ超えた
深い、つながりを
大いなる巡りの、循環のバトンとして、渡せるように

その喜びやあたたかさを
最高のギフトにして

そう

命の最後に手渡せる、最大最高のプレゼント・・・
もてなしという、エンターテイメントに、できるように。

そういうことなんじゃないか。
そんなことを感じた次第です。


一度きりの人生ならば
私はもっともっと
知らないことを知りたいり
やりたいことをやっていきたい。
きっと、たくさん経験したいんだな。

別れ際、そんなことをおっしゃったあゆみさん。


人それぞれの、生死観。

死に魅了されたからこそ
生きることにも
魅了されて、生きていく。



わたし、という、この命を終える時。

遺された人、
記憶に刻んでくれる人に

私たちは、何を伝え、遺したいだろうか。


いつかその日は必ず来るのなら。


その日その時に、
伝え遺したいもののために

今日という日を、どう、生きるだろう。


終わりから、今日を生きる。
終わっていくからこそ、生きていく。


心のままに
その本音のままに。


あゆみさん、ありがとうございました。

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