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「怪獣少年時代」Vol.5 これで怪獣作ろうぜ/地球最大ウルトラQ

小学校6年生のいつだったのか、図書委員の“彼”が図鑑のカバーの束を抱えて新校舎の僕らの教室に飛び込んで来ると、三十冊ぶんくらいを床にぶちまけ「これで怪獣作ろうぜ!」と弾んだ声で言ったのだ。
カラフルな様々な図鑑のカバーがザザザザッ!と床に大きく広がった。

これで怪獣・・って?

旧校舎の図書室では図鑑はカバーを外して書棚に並べられるので、廃棄になるカバーを、学校の端から端まで“彼”は担いで来たのだろう。

図鑑カバーはバラすと工作に使いやすい大きさになり、印刷のない裏を表にして切り貼り、ホチキスやガムテープで止め、怪獣のキグルミふうに顔に被せカラダに着付けてポスターカラーで着色すると、顔のアップが必要な「怪獣映画」には利用不可能だが、遠くから見る「怪獣芝居」には遜色なく、観客と「怪獣」のイメージを共有出来る。

“彼”の「これで怪獣作ろうぜ」の場面は、その場にいたクラスの男子(掃除してたのかな)が皆、鮮烈に覚えている。

まるで映画のワンシーンのようにカット割りも思いつく・・そこから長編映画のストーリーが湧いてこないものだろうかね金子くん、と「怪獣少年時代」を書き始めたんだが・・・

その「彼」=鈴木和道は5年になってからの転校生なので、低学年で浜野先生の怖い噂を聞いてからクラスに入った僕らとは違って、初めから緊張感なく、意外に早く仲間として「浜野特殊クラス」(笑)に溶け込んだのではないだろうか。

まるで「寅さん」映画の美保純(タコ社長の娘で嫁入りの場面で突然現れた)のように以前からレギュラーとして存在していたみたいな顔をして、和道は初めからこのクラスにいたような顔だった・・気がする・・・僕らの方も、3組の雰囲気が出来上がっていて、やって来た転校生を暖かく迎い入れる「我々の良いクラスにどうぞ」的な“優越感”というか余裕が出来ていただろうし、新参者を差別するようなことを浜野先生が許すはずがないみたいな・・みんな同じ弟子だから。

最初の自己紹介の時は「僕は歌うのが好きです」と言ったので、浜野先生が「じゃあ、何か歌ってみろ」と言い、カズは「エイトマン」を歌ったのか、美樹克彦の「回転禁止の青春」を歌ったのか近年クラスラインで議論になり、本人は否定しているが、僕の記憶は「回転禁止の青春」なのだが・・爽やかな印象の少年だった。まさに「少年」、なにか、冒険でもしようと遠くの地平線を見ているような、わくわくした表情で、髪はサラサラで横に流していたが、気取ってはいない自然な雰囲気を持った、透明感のある少年。

中学でみんなと離れ離れになってから(おセンチな言い方で恥ずかしいが)、僕はマンガのキャラクターを和道や野田をモデルにして、笑える部分を誇張して描いた。和道はヒラカズヒラ、野田はノタというキャラ名にして。決してそっくりではないがこんな感じ・・・透明感はないけど、似てる?


ヒラとノタ

似てないかも知れないが、これが僕のイメージだった。

未来になると、和道は東京芸大に現役一発合格、芸大大学院を卒業してウイーン留学して画家となり、僕が28歳でロマンポルの監督になったころに帰国して、家まで行って食事した。ファンタジックで美しい微細画を今も描いて個展を開き、僕はこれを待ち受けにしている。


『1999年の夏休み』の主人公で少女が演じた少年の名は和彦・・・


初期の「夢の遊眠社」では、芸大在学中に宣伝美術という名で、毎回のようにポスターを描いていた。


和道は僕より野田との付き合いが深いんだな・・・と考えると、それって嫉妬なのか、芸大と東大に、と顧みるが、そういうわけじゃないだろ。

二人のことを微笑ましく見守り・・なーんてことはないけど、二人ほどクレージーになりきれなかったんですよ僕はねフフフ。

ということで、元の時間軸に戻ると、「ウルトラQ」も始まっていないから「怪獣時代」になってもいない。和道もいない。

『三大怪獣地球最大の決戦』の衝撃についても書いていない。

4年生の後半で、クラスの最大のイベントは学芸会で発表される浜野先生作・演出による「オペレッタこぶとり」である。これは『三大怪獣〜』の前だ。

10月に学芸会があって、冬休みに『三大怪獣〜』を見たのだ。

そして正月から「ウルトラQ」と怪獣時代が始まる、その予兆の期間だ。

「オペレッタ」というのはこの時初めて聞いた言葉。部分的に歌がある舞台だと知る。作曲は、浜野先生の同僚の先生がしていた。

頬にコブを付けた良いおじいさんと悪いおじいさんが出て来る。そして鬼。
鬼の前で踊って喜ばれ、コブを預かってもらった良いおじいさんを見ていた悪いおじいさんが嫉妬して、翌日、自分も鬼の前で踊ると下手なんで、しらけた鬼は悪いおじいさんにコブを付け返す。悪いおじいさんには二つのコブがついてしまった。おじいさんの名前は「もくべえ」で、野球で3番サードのヒロオさんが演じた。「♪しあわせじいさんもくべえさん むかしむかしのおはなしよ」という歌の部分は思い出せるが、すべては無理だな、さすがに・・・

出場チームは我々3組だけではなく、隣りの4組も合同だった。
放課後、夕方になるまで、みなで鬼の面を作った。きびスィー作業ね。
(「お面づくりきびスィー」と日記にある)
そのあいだ先生は、外でバトミントンをやって遊んでいる。まあ、いいか、先生なんだから。

鬼のかしらは、低学年から一緒の藤塚オッチャン(なぜオッチャンと呼ばれていたのか・・オヤジさんぽいところがあったからか?)、顔にお面、頭にストッキングを被って髪の毛をモジャモジャにして、タイツの上に海水パンツを履いて野球バットを持たせ、先生は「鬼になって踊れ」と言って笑った。

僕は、どういう役目か知らなかった「効果係」が面白そうなので手をあげたら、効果音の出し方を先生に優しく教わり、レコードに針を落として風の音や、雷の音をタイミングで出して、スリルと同時に責任感というものを味わった。
間近に先生が僕の台本を覗きこんだ時に、少しドキドキした。

稽古や本番では、ちょっとでもズレたりしたら、芝居を壊してしまうという緊張感を楽しんでいた。まさかそんなバカな失敗をするかよ、この僕が、と思っていた。簡単な作業で、でも物足りないとは思わなかった。与えられた仕事を全うする快感があった。

学芸会の本番前に、一年生に見せて、ウケるかどうかを確かめた。ウケた、ウケた、うれしいぜ。一年坊主が夢中になって見てくれてたよ。

10月30日「たのしい日記1965」より
「今日は学げい会の本番やったよ、みんなヒヤヒヤでもせいこうしたじょ いろいろとねー オペレッタこぶとりてんのやったんだ ぼくはこうか係(汗かいているマンガ) しょうめいのおぎはらくん(汗かいているマンガ)
鬼のかしらはおっちゃん」

10月31日
「今日は学げい会の本番の本番 オペレッタこぶとりはこうひょうでありやんしたよ、せいこうだ、とにかくよかった、あすは休みさ よかったなぁ」

浜野先生の演劇を通じた教育は、まんまと功を奏したようで、ちょっと一匹狼的傾向があって低学年からヘソ曲がりが売りで生きてきた僕は、クラスの仲間との障壁が全くなくなり、完全にまるめこまれた。

「なかま」という言葉が重要な言葉だという認識が生まれていた。演劇はダイナミックなイベントで、全力を尽くすに足るものだ、「なかま」でやるものだ、という認識になっていた。それは僕だけではないだろう。みんな、それぞれの役割を与えられ、全うすることで演劇全体が始まる。自分の参加は単にピースを埋めているだけのものではない、全体と一緒に動いているのだ、ということが実感されていって、学校でそんなことをやれて、とても楽しくなっていったのだ。

とにかく、学校へ行く毎日が楽しい気分。「楽しい」という言葉にはしていた訳ではなかいが・・でも、やはり観察者的なところは残っていたかも。

11月6日に「テレシコワ、ニコラエフの会へいって テレシコワ・ニコラエフ・ソビエト大使とあくしゅしたよ でへへ」の記述を見つけた。やはり4年生であったか。
11月1日には「にっかんじょうやくふんさいのデモにいった」と書いている。

2009 年に、韓国でのガメラ初上映のレセプションで「子供の頃に、日韓条約反対のデモに行きまして・・」とユーモアのつもりで言ったつもりが、関係者は笑わず慌ててその部分を削除した。
1965年の「日韓基本条約」で初めて両国が国交を結び、「日韓併合は無効」と正式に認めた条約なので、それに子供だとしても反対していたと言ったのはまマズかったですね(汗)。

父はゼッケンデモを続けていたが、母はこの頃、飛び出す絵本の仕事に懸命になっていた。凸版印刷との付き合いから岩崎書店と繋がり、仕事を請け負うようになったのではないか。岩波じゃないのか、岩崎か、とちょっとがっかりしたが。

母としても大仕事で、外国の飛び出す絵本からその構造を分析して分度器を使い、不得意な数学の計算(三角関数)をして試作品を作って、どうやったら絵が飛び出すのかを研究していた姿を思い出す。

誰かに教えてもらった訳ではなく、全部一人でやっていたが、監修の人に結構手柄を横取りされてグチっていたな・・・
飛び出す構造だけをやらされて、違う作家に画を描かせたのには憤慨していた。
今でも「金子静枝」でクレジットされた「飛び出す絵本・日本民話シリーズ」は、なんとか検索することが出来る。

「つるのおんがえし」「ももたろう」「さるかにがっせん」「うらしまたろう」「そんごくう」「かぐやひめ」「おむすびころりん」などである。(画は違う作家の場合もあるが)並べてみると凄いラインナップだったのだな。
時々、ネットークションに出るが、「アポロ月へ行く」「つるのおんがえし」「そんごくう」各一冊は弟家で保存されている。

僕は、お母さん、もうちょっとハデな感じの絵を描かないのかなあ、と思っていた。これじゃ売れないんじゃないかと・・・性格にも共通するが、大人しい絵で、「売れ線」ではないように思えたのだ。絶対言わなかったけど。

でも、これだけ出しても家が潤ったという話は出なかったから、安く使われていたんだろうな・・・

その母が「こんどはゴジラとモスラにラドンも出るらしいよ」と新聞記事を見つけて僕に教えてくれた。
『空の大怪獣ラドン』は昭和31年公開で、まだテレビ放送になっていなかったから、ラドンは伝説の怪獣であった。(翌年、野球放送が中止になった時に放送される予定のテレビ欄が毎週出ていたが、ずっと野球が中止にならず、野球シーズンが終わるまで待たされた)

ラドンどころか、新怪獣キングギドラも登場する『三大怪獣地球最大の決戦』冬休み映画である。早く来い来い、冬休み・・・

集中テスト期間(中学になると三日間くらいやるからその時に慣らしておくため、同じようにテストだけの二日間を浜野先生は作った)が終わると、冬休み前にクラスで「お楽しみ会」が開催された。

全部の机を、教室の廊下側の壁に押し付けて広い舞台を作り、生徒それぞれ、グループでも単独でもいいから何かエンタテインメントをやって見せるという催しで、これは相当、面白いイベントで、僕も張り切って参加した。

これも先生が「お前ら、お楽しみ会というのをやらんのか」と提案するという形を取りながら、やれという命令ではなく、生徒の自主性に任せる運営で、出し物に対する先生の干渉はなく、そういえば終わった後の講評も感想もなかった。一緒に楽しんで笑っていた。

自分が何をやったのか、日記でたどると・・・

「第2次おたのしみ会」が決定(え?2回もやったっけ)、「ぼくは、ヒロオさんとフジヅカときはらとテレビ小僧やるんだ」が「テレビこぞうちゅうし、10大ニュースやんだ メンバーは岸を加えた5人」となっているが、まったく思い出せない。「最ごに『わたしはうそをもうしません』(ふじづか)なんて出てきたのよ」となっているから、当時の池田勇人首相のお決まりのセリフを、オッチャンに真似してもらって締めたという10大ニュースショウコントをやったのであろう。

これが12月24日の本番では「ぼくの10大ニュースは一番だった」のは、一番初めにやったということか、一番よかったの一番かわからない。
「それにとびいりに、こうはく歌がっせんに出されたよ とにかくたのしいねえ」となっている・・・

そうだ!、僕は歌が上手くて、低学年の時には、音楽の難波先生から「金子くんは、歌のチャンピオンだ」と言われたことがあったのに、高学年になると浜野先生以外の先生を甘く見る傾向になってしまい、難波先生の授業では不真面目な態度をとったから嫌われたという覚えがある・・いや、なにか間違った記憶かも知れないが、高学年になると、そこまで歌は上手くはなくなっていたであろうが、歌謡曲はすべて覚えており、流行した歌謡曲のメロディも歌詞も、現在確認すると完璧に近く正確に覚えているから、歌謡曲的絶対音感はあったのであろう。紅白歌合戦に選抜されるくらいだから。
1999年に「失われた歌謡曲」(小学館)という本を出しています。

そうだ!卒園したヨセフ保育園を経営している教会の少年合唱団にも入っていたのだった。あれも選抜試験があって歌った覚えがあるから、やはりボーイソプラノであったのだろう。毎日曜日の午前中に通っていた。

この時の歌の先生が綺麗で優しい女の先生だったのが1年くらいで変わってしまい、新しい男先生に対してはやはり態度を変えた。その気に食わない男先生が「ふざけてばかりいると神様が怒りますよ」と言った時、いつか言ってやろうと思っていたセリフ「神様なんかいません」と言ったら、当然「そんなことを言う人は出て行きなさい」と言うだろうと予測していた通りに言ったので、そのタイミングを逃さず「はい、わかりました、さようなら」と、その場で言って出て行き、振り返らず、2度と戻らなかった。痛快だった。

『三大怪獣地球最大の決戦』は、12月19日の日曜日に見るはずが、カゼをひいて行けなくなってしまった、という記述はあるが、冬休みに入って「見た」とは書かれないまま、12月30日に長野へスキーに出発してしまう。

「9時半からバスで8時間30分もかかるんだぞ」と書いているから、この日の午後か、前日の29日に見てないとおかしいが・・・超大作怪獣映画の傑作を見ることが出来た満足感が大きく、常に脳内再現反芻して堪能しているから、切り取るように日記に書き残す必要性や時間がなかった・・のかな?・・スクリーンの記憶は濃厚だが、どこで見たとか、周りの状況は思い出せない。
同時上映『花のお江戸の無責任』も、ちょっと面白かったのは覚えているから、映画館でこの時期に見たのは確実だ。

UFOかと思ったら山中に墜落した光る隕石に、スコップなど鉄具が吸い寄せられるSF的展開にワクワク。ヒビが入って割れたら登場するキングギドラの謎めいた光にドキドキ!
5千年前に金星を滅ぼしたキングギドラ。滅ぼされた金星人の魂がセルジナ国王女サルノ(若林映子)に宿り「私は金星人です」との名セリフ、王女ボディガード夏木陽介のカッコよさ、その妹でラジオ局員・星由里子の可憐さ。
ラドンは阿蘇山から復活、ゴジラは横浜港に登場。キングギドラは空から光線を吐いて破壊を繰り返す。
星由里子が司会する公開ラジオ番組に出演した小美人ピーナッツは、モスラの双子の幼虫の一匹は死んでしまったと告白、サルノ王女の暗殺を阻止して助け、インファント島からモスラ(幼虫)を呼ぶ。
モスラはゴジラとラドンに「力を合わせてキングギドラを倒そう」と話すのをピーナッツが通訳する。「ゴジラは『人間はオレたちをいじめてきた、どうして人間を助ける義務がある』と言ってます」と、怪獣映画史上初の怪獣談合が行われる。だが、談合に失敗したモスラひとりが仕方なくキングギドラに立ち向かう姿に感じいったゴジラとラドンは、遅れて加勢。それなりに強い。三体に攻撃され、空に逃げてゆくキングギドラ・・・

ゴジラの気持ちは良くわかり、悪玉ではないのだコイツはな、と思い直してやったが、キングギドラのカッコよさと悪さ強さの方に引きつけられた。逃げたが、一旦退散した方が良いと思っただけだろう。モスラが尻尾を噛んで痛いから・・・

と、当時のイメージを振り返って書くうち、映画の後半では、実はそれほど心が動かされていたわけではないことに気づく。

ゴジラの擬人化のような表現は、見た瞬間は面白いと思ったが、後から考えると「人間にいじめられている」ってなに?、そんなに矮小な存在だったのゴジラ、とちょっと疑問に思ったわけである。怪獣同士が話し合うって、幼稚じゃないか、SF的じゃないだろう。幼稚というのは、この頃の僕が一番嫌う要素。

隕石落下後のSF的展開も、金星文明が滅ぼされたという大風呂敷が説得力を持っていない気がする。一匹のキングギドラに滅ぼされたという設定は、キングギドラを特別なものとするには良いが、都市や国の破壊までは理解出来るが地球に匹敵する金星文明を破壊したというのはどうなのか、その魂が5千年も経って一人の女性に宿るというのはどうも・・・「わたしは金星人です」って、ギャグっぽくないかな。そんなことを考え出してしまったら、日記には書けなかったのであろう。

この一年後に公開される、続編的なキングギドラとゴジラ・ラドンが宇宙で戦う『怪獣大戦争』は見ていないのだ。同じ怪獣だし、それほど見たくはなかった。親に頼んで連れて行ってくれ、と言えなかった。

しかし、数十年経って歴史的に振り返ると『三大怪獣地球最大の決戦』は、お祭り怪獣映画としてエポックメイキングな作品だったと思うのである。

華がある怪獣映画、というか。

極悪キングギドラに立ち向かう三体の怪獣たち・・・という怪獣少年の感じた構造を極悪ゴジラに置き換えて自分の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』の中心イメージに据えた、と言える。

年末年始家族スキーというのは、労働組合のスキー合宿にオマケで参加するというもので、現場でスキー道具一式をレンタルして、大人たちと一緒にスキー教室に参加するから、自由にスイスイ滑るわけではなかった。

長野大町に「小学生日記1966」を持っていったようだ。
1月1日はれ
「スキー2日目である。民しゅくにとまるが、ここはさむくてさむくて日記をかく手もふるえてるよ。第2ゲレンデですべったがころんで、ころんで、ロープリフトという乗り物からころげおちたり、雪のアナにうずもれたりホントゆきかぶりの1日でした、ハイ」

1月2日はれ
「今日は日ようなのにおこづかいくれなかった、それにお玉ももらっていない。あしたかえるが、おなごりおしい、小島くんときよしくんていうこと友だちになったヨ スキーの方は右カーブができるようになった これで思いのこすことはない。それから「ウルトラQ」みたよ、ゴメスをたおせというやつ」
ゴメスのマンガが描いてある。
テレビは、食堂にあったもので見たのだが、これは強烈な印象であった。

グルグルまわって「ウルトラQ」の文字になるタイトルは、逆回転に違いない、とは分かったが、斬新でワクワクさせてくれた。
先行してコミックブックが売られていたので、当然買っており、ストーリーはわかっていたが、実際の映像を見ると衝撃が強かった。

怪獣映画は映画館で見るものだったのが、日常的に見ているテレビから怪獣が飛び出してくるような感覚を覚えた。
それまで、実写テレビドラマでも、例えば「月光仮面」でも大猿人が出て来たり、「マリンコング」という連続怪獣ドラマがあったり、怪獣が全く出て来なかったわけではなかったが、『ウルトラQ』の特撮映像と怪獣デザインは、全くレベルが違っていてクォリティが高く、驚く映像ばかりである。

石坂浩二のナレーション「これから30分、あなたの目はあなたの体をはなれて、この不思議な時間の中に入ってゆくのです」の通り、目がテンになってテレビ画面を見つめていた。
その後、石坂浩二は大河ドラマに出たりして、どんどん有名になって、好きになった。

小学生日記は、日曜だけ白枠があって、以後、その枠にはウルトラQの画が、描かれることになった。
テレビ放送順と、制作順が違うことなど、後から知って、放送順は暗記していたので、次の「ウルトラマン」も同様、大人になってまで、「ウルトラQ」「ウルトラマン」に関しては、各話のタイトルと登場怪獣を正確に言えることが出来た。いま、ちょっと怪しい・・・
そういう輩は僕だけではないだろう。
「ウルトラQ」のスタートは、日本全国に怪獣少年たちを産み、ウルトラマンで爆発的に増殖したのだ。

これを、僕は「怪獣ビッグバン」と呼んでいる・・・

to be continued…












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