PTSDと筋トレ
古い緑のスポーツブラを捨てられずにいます。なんてこともない無味乾燥なもの。今朝も引き出しからこれを選びました。古いので着脱の時にゴムがメキメキ音を立てます。
これは、ずっとむかし、クリスマスに自分のために用意したもの。
リビングに飾った背丈よりずっと高いクリスマスツリー。針葉樹の気高い香りがリビングルームを冬にしています。ツリーの根元には色とりどりのラッピングペーパーで包んだプレゼントが積んでありました。すべて家族のためのもの。すべて私が一人で選んで包んだもの。
私へのプレゼントがないと、子が「?」と思うかしらと思って、自分用にひとつ、緑色のスポーツブラを買いました。運動に没頭する時間がなんだか自分には特別だったので。
楽しいと感じられるように、没頭するスキルを日々磨きました。
その瞬間は楽しく、クリスマスツリーを選びました。
その瞬間は楽しく、クリスマスツリーを飾りました。
その瞬間は楽しく、ラッピングに励みました。
その瞬間は楽しく、夕暮れのデイケアお迎えの帰り道、窓辺に見えるクリスマスツリーを子と二人で眺めました。
その瞬間は楽しく、クリスマスの朝にプレゼントを開けました。
楽しかったのは嘘じゃない。その証拠に、二度と手に入らないそれらの時間は「よい思い出」として残っている。
けれど、今思い出すと、なぜ、これほどに痛むのでしょう。プレゼントであった財布を、夫が箱から出すこともなく失くしてしまったことなど、日々の些末な出来事のはずです。そのくらいのことには動じない程、心を無感動に鍛え上げていたはずです。
それなのに、本気で楽しいと思えたはずである瞬間こそ痛みをもって蘇ります。こんなに時間がたったというのに。いまは全く違う世界で生きているというのに。
時折、「楽しかった」時間が波のように私に寄せ返して、私はあっという間に溺れてしまう。
緑色のスポーツブラをいまだに手放さないのは過去への執着なのでしょうか。前に進めていないだけなのでしょうか。自分では、過去に別の意味付けをする努力のつもりなのですが。
そう信じて、このブラをつけて筋トレを続けているのですが。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?