書評|『詩と散策』(ハン・ジョンウォン著/橋本智保訳)(書肆侃侃房)
〈散策が詩になるとき〉
冬の真っ白い雪と幻想的な光、果物を乗せたトラックと猫、寡黙な川――散策とは、このような散らばりのなかにある存在を拾い集めることかもしれない。それが詩人によるものであれば、散策もまた詩になる。『詩と散策』は、散歩を愛した詩人ハン・ジョンウォンの散文をまとめたエッセイ集だ。
「私が冬を愛した理由は百個ほどあるのだが」とはじまるこのエッセイ集は、散策を通じて、その日常に散らばる「詩の欠片」を拾い集めていくさまを描く。たとえば、冬の雪景から、笑い声が聞こえる窓辺から、無名の人の墓地から。目に映る景色や聴こえる音は、そのものの存在を空想させ、また自身のありし日を追憶させる。
「私の目で見たものが、私の内面を作っている」と語るハン。「だから散歩から帰ってくるたびに、私は前と違う人になっている。賢くなるとか善良になるという意味ではない。「違う人」とは詩のある行に次の行が重なるのと似ている。」と、散歩の前後の在りようを詩の行と重ねる。
そしてスイスの詩人ローベルト・ヴァルザーの「わたしはもはやわたし自身ではなく、ほかの人間であり、そしてまさにそれゆえにいっそう、わたし自身なのでした。」という詩を引用し、だから違う人になっていくあいだも、私はただ存在するのだと語る。
『詩と散策』では、ハンが愛した多くの詩が引用されている。リルケにツェラン、カミュに金子みすゞ。そのどれもが素晴らしい詩の数々で、ハンの慧眼によって選ばれた「詩の案内書」とも読める。そして、それらの詩をさらに際立たせる、ハンの純粋で澄みきった文章も推しておきたい。
散策とは、単に外に出ることのみを指すのではない。存在と想像の散策。その内と外のあわいにこそ、詩がひそんでいることを詩人は教えてくれる。