将棋と想像力(再掲)
見えない世界の方が《想像の自由度》が高い、ということに気付かせてくれた《詰将棋》
電灯を消し、目を閉じる。
直前に憶えた詰将棋の盤面を思い浮かべ、脳内でゆっくり駒を動かしながら、
「1、2、‥‥」
と指し手を数えていく。
試行錯誤を繰り返しながら、寝入るまでに解答にたどり着くこともあれば、途中で意識を失くすこともある。
解けないまま眠り込んでしまった時は、翌日の夜、再度挑戦をする。
若い頃から、たまに詰将棋を解く(解こうとする)ことはあった。
そんなに難しくはない、7-13手詰ぐらいを中心とする、将棋雑誌や新聞紙上に載っている問題だ。将棋盤や駒は使わず、問題の駒配置を睨みながら考える。
たやすく解けることもあれば、ギブアップして解答を見てしまうこともあった。
7手詰めでも難しいものもあれば、13手詰めがすらすら解ける時もある。
なかなか解けない問題を分析してみると、原因が3通りほどある。
➀ 本当に難しい場合(多くは、途中で意外性の高いタダ捨てがある)。
➁ 初手はこれだ、と思い込み、その思い込みからなかなか抜け出せない場合。
➂ 何手か前に動かした駒が、まだ元の場所にあるように錯覚している時。
夜の習慣としたのは、経年劣化してきた記憶力、なかでも衰えた映像想像力を再生したい、と考えたからだ。
毎夜、眠くなる前に、7-9手詰ぐらいの問題を解く(解こうと試みる)。
そろそろ寝ようか、と思った段階で、とりかかっていた問題の駒配置を頭に焼き付け、目を閉じる。
王様周辺の駒の配置は覚えているが、少し離れた駒がどうだったか、心もとない時は、もう一度目を開き、確認する。
大丈夫そうだな、と判断したら、電灯を消す。
こんなことを繰り返しているうちに、ひとつ、発見があった。
目をあけて問題を眺めているよりも、目を閉じている時の方が、『手が見える』ことがしばしばあるのだ。
手をこまねいていた問題が、目を閉じてまもなく、すらすら解けることもある。
その理由は、やがてわかった。
《想像》の中では駒が動き、盤面は次々と変化していくのにもかかわらず、目をあけたまま、つまり、問題図を眺めたままだと、視界中の初期配置は(当然ながら)動かない。このため、一部の駒が、《想像》の中でもなお、元位置に残っているのだ。
即ち、前に書いた「なかなか解けない問題➂」状態に陥った場合にあてはまる。
この場合、《現実》がむしろ、《想像》の邪魔をしていることになる。
目を閉じた世界ならば、《現実》の足かせが外れ、《想像》は自由に駒を動かすことができる。
こどもの頃に将棋が弱かったのは、現実世界で《動的な映像想像力》が弱かったから
私は小学生の頃、将棋が弱かった。それも、半端な弱さじゃない。
3-4年の頃だったか、クラスの友人とサークルのような集まりを作りリーグ戦を戦ったのだが、そのたびに、たいてい負けた。
自分の手番で駒を動かし、相手の次の手でその駒を取られて、初めてアッと気付くのだ。当然の次の手が現実に指されるまで、そのシーンをまったくイメージできなかったのだから、負けるはずである。
一手先、数手先の盤面を、映像として想像する能力が低かったのだと思う。
対戦相手も張り合いがなかったと思うが、こちらも負けてばかりで面白くないので、やがて将棋は指さなくなった。
二十歳前後の頃にふたたび将棋を始め、今度は短期間でアマ初段レベルまで上達した。千駄ヶ谷の将棋会館で何人かと指した後、帰りの電車の中で初手から頭の中で指し直す ── こともあった。
目を閉じて行う詰将棋と同様、これはどうやら、その間10年ぐらいの間に、頭の中に映像を浮かべ、かつ、それを動かす、《動的な映像想像力》がいくらか身に着いたためらしかった。
── では、小学生の時、将棋が強い友人たちと、一手先の盤面も想像できない私との差は何だったんだろうか?
そう考えて、はたと気付いた。
小学校低学年まで、既に高齢だった祖母の監視のもと、祖母、母、姉に囲まれて育った私は、あまり戸外で遊ぶことがなかった。遊びと言えばたいてい、姉の《ままごと》につきあわされていた。
幼稚園の時から本を読み、日記を書く子供だった。
一方、将棋が強かった連中は、ほぼ例外なく男の兄弟がおり、常に戸外で遊びまわる、どちらかと言えば運動神経が発達した子供が多かったように思う。
ボールを追ったり、バットを振ったり、他の子供を追いかけたり、──つまり、現実世界で物や人の《軌跡》を追い、次の場面での《軌道》を想像して行動することを繰り返すことによって、彼らの《動的立体映像想像力》は向上し、それが将棋にプラスに作用していったのではないだろうか。
姉やその友人たちと《ままごと》など「ごっこ遊び」ばかりしていた私は、《言語想像力》は会得できた代わりに、《動的映像想像力》の方は発達しなかった。
実際、現実世界でも、たまに町内のソフトボールに引っ張り出されても、空振りばかりだった。守備についても同様で、飛んできたボールをまともにグラブで受け止めることさえできなかった。
おそらく、ボールの《軌道》を想像する能力に欠けていたのだろう。
やがて、中学、高校と運動部に入るなどして体を動かし始め、ようやく現実世界でも、テニスボールの《軌道》などを想像する力が徐々に身につき、並行して《次の盤面》を想像する力も身についていったのだと思う。
二十歳前後で将棋がある程度指せるようになったのは、《動的映像想像力》の発達とリンクしている。
この後は少々微妙な話になるので、書き方に気を付けなければならないが:
将棋界には女性の《棋士》はまだひとりも誕生しておらず、男女の棋力差が大きいのはなぜか?
という命題について、いろいろな意見がある。
最近では、上田初美女流四段が、将棋で遊ぶ子供の数、という母数の違い、そして、生理の問題、等を挙げている。
それはおそらく正しいだろう。
ただ、ここでもうひとつ、
将棋は囲碁に比べて、男女の棋力差が大きいのはなぜか?
という命題を加えてみたい。
囲碁と将棋の違いを考えてみると、囲碁は相手の石を囲んで取る時を除いては、基本的に「何も無いところに石を置いていく」ゲームである。
一方の将棋は、一手ごとに、ある場所から駒が消え、別の場所に《出現》する。
すなわち、将棋の方が、より、《動的映像想像力》を要求されるゲームといえる。
この、頭の中に《映像》を描き、それを動かして考える能力、そして一方の《言語》を自在に操る能力は、長い間の人類の歴史において、狩りの得意な男の遺伝子、情報交換が得意な女の遺伝子が、子孫に受け継がれやすかった結果である、という議論もある。
けれど、私は、自分自身の体験から(サンプル数が限られた中での暴論と言われることは承知で)、それは、やはり、幼い頃の《遊び方》の違いが大きいのではないか、と思っている。
なお、上田女流四段も遊び方の違いには言及されており、男の子の方が「戦いごっこ」が好きであることも関連していると示唆されている。
遊び方が鍵ならば、遊び方が変われば想像力も変わるはず。
幼児期から、《ままごと遊び》ではなく、《ボール遊び》のように、物の《軌道》を想像しなければいけない遊びを優先する女児の母数の増加が、女性の《棋士》を誕生させる鍵なのではないか。
(言語想像力の方は犠牲になるかもしれないが)
これにより、上田女流四段が挙げていた、「将棋で遊ぶ女子」の母数をも増えるはずである。
そしてこの作戦は、理系女子、いわゆる《リケジョ》の母数増加ともリンクしている、と思う。
《動的な映像想像力》に優れた《リケジョ》を育てる鍵はこども時代の遊び
化学系、物理系の研究者と同じチームで材料開発をしていた時、感銘を受けたことが何度もある。
例えば、結晶構造と物性の関係を議論する際に、化学屋は実空間で、物理屋は逆格子空間でと、それぞれ出自に合った図形やグラフを白板に鮮やかに描く。
その時に気付いたのは、『優秀な理系研究者ほど、頭の中で立体的な像を描き、その描像を回転させたり加工したり、電界や温度など、様々な「場の変化」に応じて、対象を経時変化させながら、課題について考えている』ことである。
議論で使うのは口から出てくる《言葉》だが、その前に、脳内で《立体描像》を動かしながら思考している。
工学博士の作家・森博嗣氏も、養老孟司氏との対談(「文系の壁」PHP新書)の中で、
「僕は言葉では考えていません。思考の大部分は映像です」
と言っている。
脳外科医の知人は、『手術前にあらかじめ頭の中でシミュレーションをする』という。
そして、その能力には、けっこう個人差があるようだ、と話していた。
「この人は理系っぽい」
という言葉は、いろいろな人がそれぞれの考え方や基準で使う。
ある人は、論理的思考をする人を言い、別の人は、単に理屈っぽい人間をそう呼ぶ。
だから、自分の考えを押し付けるつもりはまったくないが、上記のような経験から、
『理系的な能力』
とは、立体映像を脳内で効果的に思い描き、それを動かしたり、加工したりできる資質ではないか、と私は思っている。
これは、多くの理学系工学系課題を設定し、解決するために、重要な能力だ。
同音異字の《創造力》と強く関係するのが、《動的映像想像力》だと思う。
天才発明家二コラ・テスラは、頭の中に設計図を描き、検討を続けることができたという。交流による二相モーターも、想像の中だけで考えた発明だそうだ。
(「ニコラ・テスラ 秘密の告白」成甲書房)
では、『立体映像の動的な想像力』のカウンターパートとなる(かもしれない)『文系的』能力とは何だろう。
それは、おそらく、頭の中で言葉(文字と音の両方)を想い紡ぐ才能だと思う。
論戦に強い人はもちろん、「耳元で女神が囁く声を書写する」と語る文筆家なども、そうした言語想像力に優れた人たちなのだろう。
ただ、
「この人は理系か、文系か、どちらだ」
という議論はあまり意味がない。
上記の意味合いで、両方優れた人をこれまでに何人も見てきた。
(変革期の組織リーダーには、両方の想像力が必要だ。ビジョンを描き、内外に言葉で伝えなければならない)
さて、前の章で、
・将棋力と動的な映像想像力が関係しているらしいこと、
・私の子供時代、友人たちに比べてその能力が著しく低く、その背景に、戸外で体を動かすよりもままごと遊びばかりさせられていたためではないか、
と書いた。
《理系的な能力》と《将棋力》のリンクについて、よく聞くのは、『論理的な思考』に共通点がある、ということである。
しかし、通常の『論理的な思考』の多くは言語でなされるものであり、言語想像力とのリンクが強い。将棋の思考はこれとは異なるように思う。
プロの将棋は『論理的思考』が高速でなされることにより『直感』を導く、と羽生九段は語る。
(「直観力」PHP新書)
プロ棋士の『直感』に関する脳の働きの研究は理研で行われている。棋士に特有の思考回路があるようだ。
『優秀な理系研究者/工学技術者は動的な映像想像能力が高い』
という仮説がとりあえず正しいとして、こうした能力に優れた女性を増やすにはどうしたらよいだろうか。
この命題は、単に理系に進学する女性を増やす、ということとイコールではない。
実は、大学の理系学部、特に材料系・化学系に進学する(特に大学院に進学する)女性が多い、という国は結構ある。しかも、女性の権利が十分に認められているとは必ずしも言えない、宗教の力の強い国/社会だったりする。
そうした国/社会では、男性は、
「一家を養わねばならない」
ということで、早めに社会に出るため、結果的に、「高校まで比較的成績の良かった」女生徒が理系に進学する傾向にある、と聞く。そうした国/社会では、理系学科(特に化学・材料系)大学教授の女性比率も(例えば日本などと比べ)高いようだ。
それはそれで特に問題はない。ただ、そうした国/社会で、高校まで『いい成績を取る』生徒は、『解法や解答を暗記する能力』に優れた人が多いそうなのだ。
日本でも、理系文系を選択する段階の女生徒、特に、『勉強のできる女生徒』は、一般に言語想像力が発達しており、言語想像力側で『優秀』と判断されていたりする。
くどいようだが、それはそれで素晴らしいことである。
ただ、脳内で映像を加工する能力とは、必ずしもリンクしていない。
つまり、《理系的な創造力》とはリンクしていない。
《動的な映像想像力》に優れた《リケジョ》を育てるには、やはり、子供時代から、現実世界で物や人の動きを見て、次の場面を想像する機会を増やすことだろう。
統計的に遺伝子的な向き不向きもあるだろうが、動的な遊びは、動的な映像想像力の高い子供の母数を増やす。
戸外でのボール遊び、しかも、野球やテニスのように、複数の対象物(ボールとバット、ボールとラケット)の《軌道》を《想像》しなければいけない遊びは、優秀な《リケジョ》の母数を増やすはずだ。
そして、最後に:
これは、逆説的だけれど、
将棋も、そのような遊びのひとつかもしれない。
とも、思うのであーる。