小説:題材としての化学者
小説:題材としての化学者
Crazy scientistとして敬遠される菊地博士(怪しい目つきと乱れた白髪)は、苦労(妻は逃げ、爆発事故は数知れず)の末、ついに姿を見えなくする(or 異性をとりこにする、体を小さくする、××を大きくする、whatever!)物質の合成に成功した。
博士が世界平和のため(or ただの興味本位で)作ったこの物質は、しかし、世界征服をたくらむ一味の手に渡りそうになり、阻止しようとする主人公の青年(博士のなぜか美しい一人娘に惹かれている)がうっかり飲んでしまう。そして……
「── これが、フィクションに化学者が登場する典型的パターンです」
会長の報告後、化学会総会は重苦しい雰囲気に包まれた。
「化学者は地下室で髪振り乱して危ない薬を作り、物語を開始させるだけの役割で、しかもその間抜けさ故に悪者に薬を奪われる。これでは、21世紀の優秀な子供たちの関心は、相対性理論を逆用してタイムマシンを作る物理学者や、遺伝子を操作し恐竜を甦らせる生物学者の方に向いてしまいます」
理事たちは口々に叫んだ。
「そら、えらいこっちゃ」
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「化学者が主人公として活躍する小説を書いてもらえませんか?」
かつて理学部化学科のカンニング攻防戦を描き今は静かに余生を送る私のもとに依頼者が来た背景には、学会の強い危機感があった。
「徹底的に性格が悪くかつ暗い化学科教授が主人公の推理小説にしましょう。未知の化学物質を使ったテロ事件が勃発し、彼の犯行と疑われるが、何とこの根暗男が分析化学を駆使して事件を解決する。犯人は意外な人物で……」
勢い込む私を、執筆依頼に訪れた女性化学者は冷たく遮った。
「子供たちが『こんな人になりたい』と憧れる主人公でなければ困ります。やはり、明るい人柄でないと」
「え、明るい化学者? うーむ」
それは、百メートルを9秒79で走る亀、と同じくらい想像し難い。
「では、あなたの大学に、明るい化学者がいますか?」
彼女はしばらく沈黙した後、小さく舌打ちをして首を横に振った。
「確かChemist(化学者)の語源はAlchemist(錬金術師)でしたね?」
「はい。錬金術は古代エジプトで始まり、鉄銅鉛から金銀を作り出そうとして溶解・蒸留・濾過のような装置が発達し、その中から近代化学の基礎が生まれました」
「不老不死などの薬を作ろうとする錬金術師もいたらしいね」
「ええ。魔術的な信仰とも結びついていたそうです」
「それで行こう。タイトルは『恋の錬金術』でどうかな?」
「うん、悪くないわね」
彼女はぐっと身を乗り出したので、襟元から胸の谷間がのぞいた。
(おっとっと)
昨今は視線だけでセクハラとされる。私は精一杯目玉を反らせた。
「どうして白目むいてるの?」
「い、いやその、某大学の化学科に勤務する主人公・恋の錬金術師は依頼により恋愛に悩む人に薬を合成・調合する。それを飲むと夢の中で理想通りの恋が叶う……」
すると彼女は耳元でこう囁いた。
「合成だけが化学じゃないわ。私たちは原子・分子・物質の結合とその変化を研究し、体系化するの」
その目はやはり、何かに憑かれたように怪しく輝いていた。
「けけ結合とその変化ですか?」
激しく狼狽えながら私は、彼女を錬金術師のモデルに決めた。
〈初出:化学と工業、Vol.54, No.1, 25 (2001)〉
「いいところで終わりじゃないか!」
と石を投げないでくださいね。
これで、依頼原稿の文字数ギリギリなんです。