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「尻に苔が生える!」

── あの人の《正体》は何だったんだろうか? その後、どういう運命をたどったのだろうか?

そんな風に時折想い出す人がいる。懐かしいわけではなく、恋しいわけでもない。たいていはその人がいるある情景と、その人に関わる、ある『科白セリフ』がセットになっている。
ほとんどは直接目に耳にしているが、中では伝聞なのにも関わらずイメージがあまりに鮮烈なので、自分がその場にいたように憶えている『景色』もある。

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高校の同学年に、いつもナップザックを背負っている男がいた。
『いつも』というのは文字通りで、授業中も背負っている。トイレに行く時も昼食時間も、もちろん背負っている。
体育の時間はどうだったろうか? ── さすがにロッカーの中にでも入れて……いや、やはり、背負っていたような気がする。

「どうして授業中もそれ、背負っているの?」
尋ねた者がいた。
彼 ── H君は険しい顔つきで答えたという:
「いつ警察が来ても、このまま逃げられるように、だ」

彼は新左翼系の活動家だという噂だった。
肌は浅黒く、目つきが鋭く、笑ったところを見たものはほとんどいなかった。
彼はノンポリ系の生徒や教師には寛大だったが、フツーの左翼に対しては容赦がなかった。

『倫理社会』の担当教師に50代のジーサンがいた。黒縁メガネで痩せこけ、半分禿げた白髪頭だが、非常に精力的に保守政権を罵倒する人で、生徒たちには半ば呆れられ、陰で
「アカじい」
と呼ばれていた。
彼は左翼系ではあったが、国会に議席を持っている政党レベルの『左』だった。

ある時、『アカじい』は倫社の授業の終わり頃に、その時の政治に関わる持論を何かまくしたてた。
はっきり憶えてはいないが、時代背景から推測して、沖縄返還に関わることだったかもしれないし、国鉄のストライキに関わることだったかもしれない。
ほとんどの生徒は、
(……また始まったか)
とかなりうんざりしつつも、『動物愛護』にかなり近い『老人愛護』の精神で、『アカじい』を暖かく見守った ── と思う。

でも、H君は違っていた。
ナップザックを背負ったまま立ち上がり、『アカじい』の意見を舌鋒鋭く攻撃した。
『アカじい』は反論しようとしたが、H君はさらに追撃を加えた。
詳しい論戦は憶えていないが、『アカじい』の顔は真っ赤になり、言葉にならない唸り声を上げた後、H君を指さし、
「キ、キミは危険分子だ! 授業が終わったら職員室に来なさい!」
と命じた。
H君はハハン、と心の底から軽蔑するように『アカじい』を見すえ、
「誰が行くか! オマエのところなんかに行ったら、シリコケが生える!」
と言い捨てた。
その時、終業のベルが鳴り、『アカじい』は一瞬ホッとしたような顔になった後、H君を睨みつけ、教室を出た。

H君は2年の終わりに退学した ── 転校ではなく。
その後、どうなったのかは知らない。彼は部活もやっておらず、おそらくは友人もいないようだったので、誰も知らないだろう。

「オマエのところなんかに行ったら、シリコケが生える!」

人生で1度ぐらいは言ってみたい名科白セリフだ、とずっと思いながらも、今のところまだ、使う機会には遭遇していない。

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