オーディエンスや環境に合わせた表現は"迎合"なのか?
とある集まりで対話に聴き入っていた時にふと気になる話題があり、やたらと頭に残ったので考えを文章に書き起こしてみようと思います。
※話していた方の背景は詳しく分からないのでテーマだけ頂いてあれこれ考えています。
オーディエンスや環境に合わせた表現は"迎合"なのか?
大切にしていることの違い、を深堀りしてみる
同じ楽曲を演奏するにしても、環境やオーディエンスのノリを意識して演奏を変えていくスタイルと、自分の理想とするパフォーマンスを追究して、オーディエンスが理解できるかどうか、共感できるかどうかは後回し。良いパフォーマンスであれば、提示された世界観に人々がついてくるだろうというような考え方。音楽などライブパフォーマンスを行う方々なら誰もが考えたことのあるような話題ではあるように思います。淡白な言い方をしてしまえば大切にしていることの違いだよね、で終わってしまいそうですがこの対立はなんだか深堀りしがいがあるように感じます。
一旦それぞれの立場に立って目指す先や良さ、課題を考えてみます。
環境やオーディエンスを意識した演奏の特徴は一回性に重きをおいていることにあるように思います。一方でオーディエンスに依らず世界観を提示するパフォーマンスは自身の理想とパフォーマンスの一致に重きを置いているといえるのでしょうか。両者をここでは、一回性重視型、純粋性重視型として整理してみます。一回性の対義語としては再現性なのでしょうがあんまりしっくりこず、普遍性というのも思いましたがちょっと広がりすぎてしまいそうなので純粋性でいかがでしょうか。
一回性重視型は、今、ここ、この瞬間にいる私、オーディエンスとの関係性や環境は1度きりしかなく、この瞬間におけるベストとなるパフォーマンスの追究が目指すところでしょうか。こういった思考から、パフォーマンスは柔軟になり、アドリブ性や環境に合わせた余韻、オーディエンスのノリに合わせて演奏の強弱を変えるとか洞察力を働かせながら細やかなマイナーチェンジをしていくような思考になりそうです。
一方で、純粋性重視型は、自分が理想とするパフォーマンスがあり再現性高く、理想通りのパフォーマンスを行う事を重視していくような思考でしょうか。観客がついてくるかというよりは自分自身の理想と対峙することに重きを置かれているように思います。世界観を追求するために集中力を持ってパフォーマンスを行っていきます。
一回性重視型と純粋性重視型の決定的な違いは外部からの影響を受けてパフォーマンスを行うか、外部からの影響を排してパフォーマンスを行うかにありそうです。この状況に応じた変化を迎合と捉えるのは随分な批判的な見方に思いますが、一回性重視型を批判的に捉えるならそうなのかもしれません。逆に一回性重視型の立場から純粋性重視型を批判するならば、応用力がない、独善的だとも言えるかもしれません。外部からの行き過ぎた干渉のある表現は迎合になってしまい、外部からの影響を排しきった表現は独善とも取れるという程度の話のようにも感じます。求められる形みたいなものを追いすぎて自分の心地よさから外れてしまうのは本末転倒なように思います。
とはいえ完全な対立構造にはない
(表現者の端くれとして思うこと)
一旦それぞれを対立構造として捉えて考えてみましたが、実際のパフォーマンスを考えた時に、完全な対立構造にはなく、表現者はいずれの要素も持ち合わせている用に思います。
筆者はハンドパンの演奏を行いますが、自分の良い、心地よい演奏の追求していくパフォーマンスと、オーディエンスのレスポンスを感じながら即興で組み立てていくようなパフォーマンスがどちらの方向性を取るのが良いのかで悩むことが多々あります。
自分の演奏のスタイルはこうです、と提示して何を感じるか、持って変えるかはあなた次第ですという姿勢はかっこよくはありますが、それで会場にきてくださった方々が満足してもらえるだろうかという不安はどうしても残ります。
その時々の応用やレスポンスに応じた演奏というのも理想に思いますが、そこに求められる技術はかなり高度なものなように思います。いずれにせよ高い技術がないとどちらの道においても十分なパフォーマンスは出来ない訳です。
また、外部からの影響を受けながら演奏する演者もまた、自分が理想とするパフォーマンスはある訳で、自分自身の世界観は一回性を重視するにしても持っているはずです。
考えれば考えるほど、表現の良し悪しというのは分からなくなります。
表現の価値、意味をどこに求めるか、芸術性や分かりやすさ、どこまでも多軸的なものなのでつまるところ自分が納得できていればそれでいいのかもしれません。
どんな形であれ鑑賞者の刺激になり何かしらのエネルギーになれば表現としては価値があるように思います。
この対立構造はヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想と相似関係にある
一回性重視型と純粋性重視型の対立構造は、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の関係と相似関係にあるように感じます。だから、やたら話題の中で頭に残ったように思います。
ざっくりと説明するならば、ヴィパッサナー瞑想とは最近話題になっているマインドフルネス瞑想の系統で現在の瞬間に意識を保つこと、今、個々にある瞬間を判断せずに受け入れる瞑想法です。
一方、サマタ瞑想は、心の集中や安定を目的とした瞑想法です。心を一点に集中させ、雑念や感情の乱れを鎮めることに重点を置いています。
ヴィパッサナー瞑想では今、この瞬間への、洞察力が高まり悟りへ導くもので、サマタ瞑想は一点の集中から悟りへ導くものと認識しています。
また、両者は互いに補完し合う関係にあります。
オーディエンスの機微やパフォーマンスを一緒にする仲間、会場の雰囲気など今、この瞬間のすべてを感じ取りながら表現をしていく境地はヴィパッサナー的で、1つの理想を追い求めることで良いパフォーマンスになるような思考はサマタ瞑想的に感じます。
イメージとしては、意識が浸透して拡散いく方向の追求と、一点突破するような追究で、∞に拡散するものと1に収束するもので、行き着く先は同じ、0、空なんだろうなと思っています。
何か結論がある話ではなく、久々に表現とかアートとはということをじっくり考える機会があり、何か吐き出したくなっただけな内容ではあるのですが、やっぱりあれやこれや考えたり文章にするのは楽しいですね。
自分の中の楽しさ、と伝わる楽しさも別ですね。なので、自分が書いていて楽しいから書いている類の文章です。もしお付き合いくださった方がいたならありがとうございました。感想、ご意見あるなら大歓迎です。