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保坂和志・山本浩貴(いぬのせなか座)トーク中に頭の中で跳ねていたあれこれ

「小説的思考塾」の保坂和志・山本浩貴(いぬのせなか座)トークに行ってきて、二人の話を聞きながらメモをとったり、懇親会で山本君と立ち話をしたりしたので、そのとき考えたことなどを書いてみる。山本君の大著『新たな距離――言語表現を酷使する(ための)レイアウト』の出版に紐づいたイベントである。


 創作が、主体的創造性(いわゆるオリジナリティ)から発するものではなく、個人の主体的創造性は西洋近代特有の幻想である、というのは議論の前提になっていたと思う(この前提が共有されないまま発せられる「パクり」という言葉の濫用に私はしょっちゅう性懲りも無く苛立っているが、それはまた別の話)。その上で、山本君は外からの影響と同時に、自身の記憶などから影響をうける主体の状態を「環境の束」と名付け、「環境の束」が創作を組織する環境を「アトリエ」と呼んでいる。ちょっと雑な抽象化かもしれないが、細かいところを気にするとキリがないのでこれくらいの定義にしておく。「環境の束」「アトリエ」をイメージの中枢においたところから、『新たな距離』収録の大江健三郎論および荒川修作論(正確には上妻世海と宮川淳と荒川を絡ませた制作論)は書かれている。二人の話の話題に多く上がった人物名も、まずは大江健三郎、次に荒川修作だった。


 印象的だったのは、大江健三郎のひたすら書き直す手法と、保坂和志・小島信夫の書き直しを一切せずにだらだらと書いていく手法は、対立項として考えてはいけないという山本君の発言だ。保坂さんも、この発言に同意の気配を漂わせていた気がする。同時に、大江健三郎の書き直しは、完成形として優れた小説作品を世に残すための手段ではなく、書き直しというプロセス自体に強烈な執着がある、という話も覚えている。確かにそうだ、と反射的に思う。
 さらに、大江には宇宙への関心があり、宇宙的感覚と「書き直し」は通じている、という話があった。大江の小説には隕石が急に落ちてきたりするが、誰もそれに言及しようとしないというのは山本君の指摘。
 保坂さんは、一般的な文芸批評の在り方を(いつものように?)否定しつつ、宇宙的な視点から物事を捉える谷川俊太郎・宮沢賢治・吉本隆明を別の肯定的な場所におくような言い方をしていた。「吉本隆明が批評家として認知されているのが信じられない。あの人はちょっと変な人だ」というような山本君の発言もあった。
そして、宇宙的視点は、荒川修作の「死なないために」という言葉の指示書にも通ずる、というのが、保坂・山本に共通する視座だ。

 このあたりは、自分がメモをとりつつまとめたトーク前半の内容だが(吉本、大江に関する微笑ましいエピソードの開陳もあったが、テクストだけであの微笑ましさを再現できなそうだし割愛する)、二人の語る地平から離陸した自分の連想を記すと、私は「死なない」という言葉に反応しない個体なんだな。以前から、荒川修作の「死なない」という言葉の使用にピンときていなかったし、山本君の荒川論にも「わからない」感じが残った。この「わからない」は論理が追えないということではない。主体をめぐる遠近法を変えること、あるいは遠近法の認識を変えることが「死なない」に通じるという理路はなんとなく感知するのだけど、それが私自身の必然と結節点を結んでいない感じがする。そう考えると、自分が「死なない」よりも、「死ぬ」に反応する傾向を持っていることに改めて気づく。大学学部の卒論でバタイユについて書き、自分の単著の批評対象としてスピッツを選んだが、どちらも死を巡る表現を為した存在だ。批評再生塾の最終課題に提出したアンビエント論は、サティ、イーノ、バシンスキーがそれぞれ大量死の体験からアンビエントミュージックを編み出したという論を提示している。理由も根拠もないまま愛着を持っているLana Del ReyやART-SCHOOLの音楽も死をモチーフにしているし、サウンドの残響感自体に死が宿っている。自分の執着先を思い出すと、死と関連を持つ作品がやたら溢れる。そもそも、レコードや映画に愛着しているのも、複製文化が死者と結びついていて、パフォーマーが死んでも録音と録画には残る幽霊性に惹かれている。こうした死を想う志向には論理の手前で共振するのだが、「死なない」という言葉を前にすると、素通りするしかない自分に気づく。

 山本君と立ち話したときには、荒川は死を恐れ続けるから「死なない」と言ったはずだと話していて、保坂さんは猫の死から「死なない」が必要だと感じたという。そもそもいぬのせなか座は友人の死からはじまっているから、山本君も保坂さんも他者の具体的な死の体験から「死なない」を見ていて、自分にはそこまでの決定的に作用する他者の死に出会っていない可能性はある。死んで衝撃を受けた人はいるし、自分自身にも死にたくないという気持ちはあるけれど、同時に、自分の生には疲労感が常に宿っていて、生が終わると楽だなという気持ちもなくはない。訳の分からない切迫感によって目立つような活動をして、褒められたり罵声を受けたりしている。楽しいこともたくさんあるが、すべてから解放されるならそれはそれで受け入れたい気持ちがある。以前に「代わりに読む人」に「目覚めたときのさみしさこそが自分の生にとっては一番大事で、そこには自分にとって神様がいるとしか思えない」という主旨の文章を寄稿したことがあって、それはつまり目覚めた瞬間に死を愛しんでいる、と言い換えられる。幼少期の記憶に、朝4時の夜明け頃に母親とF1をテレビで観たイメージがあって、それは自分にとっての「透明な死」みたいに印象されていて、ずっと記憶に残っている。この、死から何かを受け取り続けている感覚は一体何なんだろう。その疑問を積極的に解く気はあまり起きないが、精神の渦の中で漂っている問いだったりする。
 
 死については、後半のトークでもっとやっかいな問題として自分に引っかかってくる。
 太平洋戦争期における若者の早死に、短歌の美学があったと大江健三郎が書いているらしい。短歌が、若者の死を促進したと。それに対し、だらだらと生きることを選ぶ短歌が後にでてきて、自分はだらだら側だというのが保坂さんの発言。歌集や連歌の量があれば、言い切る短さではない長さが生まれるのではないか、というか言語表現におけるジャンルの違いは端的に量ではないかという山本君の興味深い発言もあった(同じ話を以前にした気もする)が、この話題はもっと直接的に自分を刺してくる話に、端的に私は最近短歌を書き始めた。しかも、死のイメージを綴った短歌がどんどん出てきた。書き始めた理由は省略するが、短歌が死に繋がるというのは、根拠はごく最近の体験から考えると十分納得できる話だ。んで、私は死を賛美するような表現はしたくないので、もし自分の短歌が美しい死を想起させるものになっていると困る。とはいえ、私はだらだら生きるための短歌というのは自分の表現に接合されないコンセプトのように感じていて、言語表象として死を扱いたい気持ちが強い。というか、恐らく私が短歌を書く限りは死が出てくるはずだ。その際、死を扱いつつ、死を煽るものではあってはならない。そんな、倫理が、今後の制作の圧として機能する。
 
 その話の流れで「言葉は無力だというけど、むしろ言葉は力が強すぎる」という話が出ていた。実際、死んでいい、死ぬべきだ、を短歌が後押しした。戦争中、言葉に力はあっちゃったのだ。
 めちゃわかる。イベントがはじめる前後、ツイッターの言葉は本当に人をひどく動かすと実感していた。自分と意見の異なるアカウントが攻撃的な発言をすると、つい反論したくなる。反論しても気持ち悪いことにしかならないと予想して耐えるのだが、ツイッターのテクストは、本当に人の情動を駆り立てる。こんなに情動喚起力を持った表現があったろうか。よく「音楽は情動を動かす」などと、例えばヒトラーの演説やナチスのワーグナー賛美に引きつけて語られたりする。しかし、実際に情動的なのは言葉である。特にテクスト。自分の存在を否定するようなテクストに出会うと、その否定性が際限なく拡がるのを感じる。一人だけの否定も、世界すべてからの否定に思えて心が痛んだりする。テクストには、イメージを抑制する機能がなく、テクストから得た情動が無限増幅する仕組みになっている。音楽や、あるいは身振りは、テクストの無限拡張性を、むしろ制限する方向に機能するのではないか。きっと音楽はエモーショナルなものではない。「エモーショナル」と言われる音楽も、「エモーショナル」といわれる形式に則っているにすぎない。音楽や身振りやダンスや演技には、言葉の情動の無限を有限化させ、情動とは別の場所へ言葉を持っていくための装置に思える。詩や小説や批評やエッセイに蓄えられてきた技術も、同様の装置だ。この「別の場所」とはなにか。表現が「叙情的」と言われるとき、たしかに「叙情」だと感じることはある。しかし、それは情動を音楽や詩歌の構造に置きかえたものではないと思う。「叙情」とは、感情表現とは別のなにかなのだ。その「なにか」とは、一体なんだろう。この文章の中で多くの問いをたててみたが、「叙情とは何か」が、今一番答えてみたい問いだと思う。
 
 色々書いたが、「楽しかった」という感触が結構残っている。打ち上げの後半も後半にかけて、スタッフをやっていたる山本彼等くんが浅野いにおへの思い、最近の受容され方に対する怒りの思いを急に語ってきて、それが一番楽しかったかもしれない。

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