ミーハーは守破離の「守」
私の友人にミーハー過ぎる人がいる。
ミーハーというと、自分がないというマイナスな意味で捉えられることが多いかもしれない。
私もミーハーにはなりたくないと思っているので、ミーハーをあまり高くは評価していないということになるだろう。
そんなミーハーが私の友人だ。
しかし、その度が過ぎると逆に心地の良いものだ。
例えば、服ならこのブランド、香水ならこのブランドと世間的に声高く言われているものをすかさず持っているのだ。
そして、趣味やアルバイトなど、良いねーと言われそうなことをやっている。
これはディスっているわけではない。
世間的に評価されるものをやってみたり、持っていたりすることで、社会的信用は高まるのであろう。
しかし、私は思う。
それでは人と同じではないか。
あなたのアイデンティティが失われはしないのか。
いや、人と同じことをしているというアイデンティティなのだろうか。
みんな違ってみんないい。
違いを認めていくのは非常に大切なことである。
私も正直どうでも良いというのが本音のところではある。
ただ思うところは、人と同じことをしていて面白いのかということ。
私のように面白さを追求している人ばかりではないのだから別に良いのだが。
思ってしまうのは、特に大学生に対して。
同じような服を着ているなと思わざるを得ない。
私が服好きだからということもあるかもしれないが、「大学生ファッション」が大学を席巻している印象である。当たり前か。
そして、それで良いんだと思う。
だってそれが、彼らの幸せにつながっているのだから。
振り返れば私もそうだったかもしれない。
人が良いと言っているものを買ったり、場所に行っていた。
しかしいつしか他の人と同じことをしていてもなーと思うようになり。
そう考えると、守破離の考え方が適用できないか。
多くの人たちは「守」の段階なのかもしれない。
まずは自分に感覚を身につける。
そこから自分なりの道を見つけていくということだ。
なるほど。
文章を書いている間に面白い発見があった。
ミーハーは守破離の守なのか。
茶道やスポーツでも破に行けない人はたくさんいるだろう。
それと同じで、ミーハーの人々もそこで終わる人もいるし、破っていく人もいるということなのかもしれない。
実に面白い結論に至った。
ミーハーでも別に良い。
それでも私は破っていきたい。