年齢計算のクセがすごい
昨日観た舞台に吹越満が出ていた。あるシーンで逆さまになってセリフを言う(5分くらいだったけど体感は15分以上だった)シーンがあって、役者魂を感じたんだけども。そういうとき、すぐに気になるのが年齢だ。
休憩中に調べたら、55歳。母と同い年。母に「同い年だけどママは逆さまになれる?」と聞いたら笑いながら無理だと言われた。
55歳。80歳で死ぬとしたらあと25年しか生きられない。生と死についてよく考えるようになってしまった私は誰の年齢を聞いても「あと何年生きられるか」思考をこっそり繰り返すようになっていた。年齢計算を瞬時(ときには電卓を使いながら)にしてしまい、「ああ無情……」という気持ちになる。この独自の思考法は飽きたり、答えが見つかったりするまでしばらく続くと思う。私はとにかく生と死について考えることが今ブームで、迫りくる死に対して、どう考えれば自分がラクでいられるかについてずっと悩んでいる。
人は生まれた瞬間、死へのカウントダウンが始まっている。インスタでおとちゃんすずちゃんという女児双子のアカウントを愛でてよく見ているんだけれど、彼女たちは3歳。3歳だけど死へのカウントダウンは始まっているんだ……なんて「かわいいなあ」という感情とともに悲観して見ている。
昨日天皇陛下が60歳になったというニュースを見た。念の為だけど私には政治的思想も右翼的思想もなにもなく、失礼を承知でいうが天皇陛下という職業をされている方が60歳、つまりは還暦になられたという事実のみ受け取った。
印象的だったのが「もうではなくまだ還暦で」と語られていたこと。私の「あと何年生きられるか」思考の上だと、60歳になった人の気持ちは想像もできないほど心中穏やかではないと予想される(ちなみに私の父も今年60歳だが、いつ死んでもいいと言っていた。なぜ???)のに、あえて《もう》ではなく《まだ》と言う。年老いた先輩たちからは「いずれ(僕らの気持ちが)わかる」「こわくなくなる」などとアドバイスされる。
グーグル検索で「まだ60歳」としたらこんな記事が出てきた。
きっと、定年前後の人たちが読む記事だから、当たり前だけど「死」が訪れることが前提と捉えられる記事である。現在28歳の私はまったく当事者ではない。でも、必ず来る。ホラー映画の「くーるーきっとくるー」の歌詞の信憑性が増してきた。
さっきテレビで見た“四谷のたい焼きやに72時間密着するNHK番組”で、哲学を学んでいる青年が出てきて「そもそも生きるのって何だろう?」「人生って何だろう?」と考えることをしている的なことをインタビューで答えていた。「まわりからはエグいことやっているなって言われます(ハハッ)」みたいなかんじで笑ってた。そうなんだ、哲学的なところまでいってしまうと、たぶん戻ってこられなくなる。私は二階堂奥歯さんの本を読んだことがなく、読むのも怖い。なんとなく、彼女が本を読みすぎて知識がありすぎて苦しくなって命を絶ってしまったように思えるから、怖い。知識とはときに脳に潤いを与えてくれるが、詰め込みすぎると「考える」という無限ループに陥ってしまう。