やった方がいいとはわかってますが。
「ご飯大盛りにしますか?」に対して、本当は食べたいのに瞬発的に「はい」と言えず、お腹いっぱいになれなかったとき。
替え玉無料のとんこつラーメン屋なのに「替え玉ください」と言うタイミングを失ってなんか損しちゃったとき。
コーヒー屋で、「S(エス)サイズください」と言ったのに「L(エル)サイズ」と伝わってしまい、間違って伝わったかもと内心わかっていても訂正する機を失い、そのままLサイズの料金を支払って、アイスコーヒーをたぷたぷ飲む羽目になったとき。
コンビニで「ストローください」と言えなかったとき。
割引券を持っていたのに、なんだかお店の人が威圧的で出すタイミングがなく、お得に買い物ができなかったとき。
不甲斐ない。上記のような「損」をたくさんしてきた。
楽天ポイントが好きで、だいたいの店で何かを買うときは楽天ポイントを貯められるのだけど、駅のコンビニや繁盛店の忙しそうな会計のとき、「アッ,ポイントカードあります…」と自分から言い出せないときも結構ある。「ああ今日も言い出せなかった」という、ちいさくて、ささやかな苦い経験をたくさんしてきている。
その後、どうなるかというと、「正しいこと」ができなかった自分を少し責め、後悔し、「まあいいやって思おうよ」という神が出てきて、私をなだめる。そして、次は強くなろう。正しくならなくちゃ、正しくあるべきだと襟を正そうとする。
「損をしないようにすること」「権利を訴えること」「お金を払っているのだから相応のサービスを提供してもらうのは権利だと主張すること」「経験しておいたほうがいいことはやってみること」――全部正しいことはわかっている。でも、なんかできない。やったほうがいいとはわかってるんだけど。
気力がないとできない「正しい」行動
「まあいいやって思おうよ」という名の神とともに、私に舞い降りるのは、“いつも正しいひとの圧力”。とりわけ、私のパートナーである。
パートナーは、曲がったことが大嫌い。いい意味にも悪い意味にも、思ったことがそのまま口に出る。だから、公共の場で自分が不当に扱いを受けていると思ったら声をあげるし、「おかしいですよね?」と訂正や主張、反論したりできる。会社でも、目上の人にも、誰にでも「それ、違いますよね?」と言える。正義のひとだ。こういうひとがそばにいると助かるのだけど、だいたい泣き寝入りすることが多い私にとって、それが少しうらやましい。私にできないことだから。
「権利を訴えること」「損をしないようにすること」「お金を払っているのだから相応のサービスを提供してもらうのは権利だ主張すること」「経験しておいたほうがいいことはやってみること」――そうだよね。全部やったほうがいいよね。でも、それを主張したり選択したりするには、気力がいる。その気力がもしも毎日寝ることでチャージされてるのであれば、私はいくら寝てもなかなかチャージがされない身体を持っているようだ。それに今日気づいた。
「正しさ」の加害性、あるよね…?
詳しい経緯は書けないが、仕事で、私がクライアントに不当に扱われる事案が発生した。金銭がらみである。それを見たとき、最初に出てきた感情はクライアントへの怒りではなく、「パートナーに責められる」という恐怖だった。
「なんで?こんなのおかしいよ。ひさこちゃんは悪くないんだから、会社に言ったほうがいいよ」と私に代わって怒ってくれるあなた。絶対そう言うよね。でもその正しさがプレッシャーになって、正しいことを主張できない私は自分のことが、あまりにも不甲斐なく、ああ私はどうしてこんなにダメな人間なんだろうと責め、自己嫌悪に陥ってしまうのだ。
これまでに何度もあった。そのたびに、私を疲れさせてきたのは、クライアントに不当に扱われた事実ではなく、パートナーの圧だったのかもしれない。と、今日気づいた。
どちらの選択が、私は健康でいられる?
多少不当なことをされても、「正しさ」と正義をもって相手に抗うことのほうが私は削られてしまう。正しくあれ、と感じることが、プレッシャーとなる。だから、最近パートナーにあまり相談したくなくなっている。
もしかしたら、正しいことはいつでも正しいわけじゃないのかも?とも思う。
メンタルヘルスの面でいえば、どちらを選択したほうが、自分が平穏でいられるのかというのを重要視しているのだと思う。「手切れ金」という言葉の通り、「今後一切かかわらないためにはいま不当に扱われてもこれっきりや」という思考になるのかもしれない。「こんなやつらとやりとりするくらいだったら、これっきりになればいいなー」みたいな安易な思考でもある。
「労力を使い主張して損しない正しさ VS 手切れ金を渡して未来永劫関わらない選択肢」だとしたら…私は今回後者をとるのだと思う。正しくないですよね。でも、そうしないと疲弊して死んでしまうかもしれません。
もちろん、不当な扱いをされたこと自体は悪しきことだ。声をあげる必要性もある。そうやって訴訟している人や運動をしている人を矮小化する意図はない。それでも、たとえば不当を訴えるデモに参加できるのは元気な人の特権だと思うし、私みたく疲れやすい精神疾患の者がいることも事実だ。ちなみにだからといって、何もしないわけではない。私なりにできることをやる。こうやってnoteを書いたり、対面で喋るのは苦手だけど企業や政府にメールをして訴えるとか、メールならキレられるしとか、社会運動だったらクラファン支援をするとか・・・。自分ができることを、できるタイミングでやって、抗っているつもりだ。
私の選択が「正しさ」によって消されないために
でも、いつも泣き寝入りしているわけではない。ちゃんと(?)怒りの許容量を超えたときは、怒れる。
過去、不当な報酬で仕事を頼んできたクライアントにはしっかり「無理」だと強く伝えたし、聞いていた仕事量以上のものを載せられたときはしっかりキレた(自分の想像以上に自分がキレた)。ちょうど去年も不当な扱いをしてきたクライアントがいたのだけど、そのときに抱いた怒りがなかなかおさまってくれなくて大変だった。
ようは、つまり、私はちゃんと自分のバロメーターで怒るし、「これはちょっと‥」と思ったものに対しては自分なりの言葉を尽くせるのだ。もしかしたら、世間の考える(=つまりパートナーが持っている)「正しさ」の指針と少しずれがあるのかもしれない。
だから、その時々の自分の体調や余裕で、もしくは自然に湧いてきた怒りのレベルに応じて、怒ったり、訴えたりすればいいのだと思う。我慢できなくなったら、たぶん自分で行動できるから。
「正しい」ことが、いつも「正しい」わけではない。そう考えたら、少し楽になってきた。きっと時と場合によって、ベストな選択は変わるし、自分が楽に感じる指針でやっていけばいいんじゃないかと思う。「正しさ」のものさしはひとつだけじゃないのだと思う。
本当はラーメンの替え玉したかったけど言えなかった。そういう日もあっていいじゃないか。楽天ポイントカード出せなくたって、死ぬわけじゃないさ!
今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!