隅田川花火大会で思い出す祖母の不思議な縁 #虎吉の交流部屋初企画
今夜は隅田川の花火大会の日。
母と二人、テレビで花火を観る。
不意に母が
「子供の頃、ばあちゃんのパトロンのおじさんが隅田川のそばで結婚式場と料理屋をやっていて、その建物の屋上で隅田川の花火を観たのよね」
と言った。
「ばあちゃん」とは、私の母の母親、つまり私にとっては母方の祖母である。なぜ「おばあちゃん」ではなく「ばあちゃん」と呼ぶことになったのか、今でもはっきり覚えている。
祖母は「おばあちゃんって、おがついている分、ほんとうにお年寄りみやたいだから嫌。ばあちゃんって呼んで」と言っていたのだ。
なので、孫達は皆「ばあちゃん」と親しみを込めて呼んでいる。もう、祖母が亡くなって二十数年が経つ。
ばあちゃんのパトロンというのは、母の父親と離婚して東京に戻ってきた祖母に小料理屋を持たせてくれたおじさんのことだ。
祖母は女手一つで母を育てるために、母を自分の母親(私にとっての曽祖母)に預け、住み込みで働いていた。そんな祖母を見初めて、小さな小料理屋を持たせてくれた人がいる。
私はこのおじさんを子供の頃から知っている。
祖母の部屋に飾られていた1枚の写真。部屋に入ると必ず
「ばあちゃんがお世話になったおじさんにご挨拶しなさい」と、この写真に手を合わせるように言われた。
祖母は小料理屋を33歳で開いた。母の話だと、そのおじさんは当時60歳を超えていたのではないか言う。
親子ほど歳の離れた間柄に、どんな交流があって小料理屋を持たせてもらったのかはわからない。簡単な言葉で言ってしまえば愛人ということになるのだろうが、そんな言葉だけで片付けられるような関係ではないような、そんな気もする。母もそのおじさんに大切にしてもらった記憶しかないと言う。
母が建物の屋上で花火を観たのは、小学校5年生か6年生の時。
もう、かれこれ70年近く昔の話。
「ばあちゃんのどこが良かったのかしら」
母のこの言葉の意味を私は笑いながら受け止めた。なぜなら、祖母は孫の私が言ってはいけないことかもしれないが、はっきり言うと「ブス」なのである。
「まあ、美人は3日で飽きると言うけれど、ばあちゃんはそうじゃなかったからじゃない?」と私は答えた。
「ばあちゃんってね、水商売をやっていたけれど狡いところがなくて、誠実で真面目だったのよね。おじさんも経営者だったからそういう真面目なところを見抜いてかわいいと思ったんじゃないかな」と母が言う。
「そうだね、ばあちゃんは一生懸命で真面目な人だったね」
私はそう言いながら、祖母が毎日、店で出すお料理の仕込みをしている姿を思い出した。
おじさんは出張先で倒れ、そして亡くなったそうだ。お店の名義は初めから祖母になっていた。そして祖母はその後、お店に来ていたお客様であった人と再婚し、私は「じいちゃん」と呼んでいる。
祖母がもらった小料理屋は今でもその場所に形を変えて存在する。
今は小さなワインバーである。
なんの縁があって、祖母とおじさんの関係が始まったのかはわからない。でも、何か引き合う不思議な縁で、おじさんと祖母、そして私たち家族は繋がった。
「いいおじさんだったね。ばあちゃんも幸せだったね」
母は遠い目をして、花火のフィナーレが映る画面を見つめながら言った。
虎吉さんの企画に参加させていただきました。
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