【『パンと牢獄』連載⑩】ロサ・タシデレ! チベット暦のお正月
チベット人の真意を映す映画を撮ったことで、中国で囚われの身になったドゥンドゥップ・ワンチェンと、夫の逮捕のために難民となり、ついには米国に渡って彼を待ち続けた妻ラモ・ツォ。この夫婦と4人の子どもたちの10年の軌跡を追ったノンフィクション『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』の作者・小川真利枝さんがつづるチベットの暮らしのあれこれ。今回は、チベット暦のお正月について。
■『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』詳細
ロサ・タシデレ(お正月、おめでとう)。
西暦2021年2月12日は、チベット暦で2148年1月1日の元旦です。チベットでは「ロサ(お正月)タシデレ(おめでとう)」と挨拶します。
チベット暦とは、太陰太陽暦で、太陽暦(季節の循環を1年とする)の1年と太陰暦の日数の数え方(月の満ち欠けを基本とする)を合わせた暦法です。1年は新月から始まり、12ヶ月、1ヶ月が30日と決まっています。そのため毎月15日が満月です。西暦2月の新月の月の出をもって始まります。ことしは西暦2月12日が新月なので、2月12日がチベット暦の新年になります。西暦との日数の微調整だったり、1ヶ月に同じ日が2回あったり、いろいろあるのですが、それは、ダラムサラにある「メンツィカン(チベット医学・暦法学大学)」というところで、毎年、研究者たちによって決められています。チベット暦のカレンダーもメンツィカンで発売されるのですが、日本で「大安」や「仏滅」が決まっているように、チベット暦にも「引っ越しに適した日」や「お葬式に適した日」さらには「散髪に適した日」などさまざまな日が設定されていて、読みものとしてもとても興味深いカレンダーです。
このチベット暦からもわかるように、チベットの文化では、験を担いだり、占いをしたりすることが日常とともにあります。以前、わたしがダラムサラ滞在中に日本に帰国しなければならなくなったがことありました。撮影のことなどもあって、いつ帰国しよう…と悩んでいたところ、チベット語の先生が「占いで決めたらいいわよ」と、占い師のもとへ連れて行ってくれた経験があります。その占いの館(ただの家です)に入ってみると…そこには怪しい占い師ではなく、えんじ色の袈裟を着た僧が座っているではありませんか! そして、わたしが相談ごとを話すや、サイコロをふりふりえい! 「ふむ。年明けがいいでしょう」と、ものの3分で決めてくれたことがありました。そのサイコロにどんな意味があるかわかりません。けれど、なんとなく「よし!年明けにするか」とそっと背中を押してもらえたことを覚えています。
ロサ(チベット暦のお正月)を迎える催しも、すこし神秘的だったり占いがあったりします。それが、チベット暦の12月29日「グトゥー」です。行く年の汚れを落とし、来る年が健康に平穏に暮らせるよう祈ります。
今回は、わたしがダラムサラで経験した「グトゥー」をご紹介したいと思います。
「グトゥー」は、夕暮れから家族団らんで食事をするのが恒例です。でもその前に、ダラムサラの中心にあるナムギャル寺院で行われる「トゥルギャ」という儀式があり、一般人も見学ができるということで、わたしは撮影に出かけました。
ナムギャル寺院は、ダライ・ラマ法王が所属するゲルク派のお寺で、ダライ・ラマ法王の亡命前は、チベットのラサにあるポタラ宮内にありました。
「トゥルギャ」は、一年の溜まった悪いものを落とす儀式で、自分を邪魔する者の心を変化させ、来る年、自分に障害が起きないようと祈ります。寺院では、朝からプジャ(祈祷)を行い、日の出に合わせてダライ・ラマ法王の前でチャム(宗教舞踊)をして、最後にこの「トゥルギャ」を行います。この手前にいる僧が持っている三角形の槍のようなものを「トルマ」といいます。トルマとは、ツァンパ(麦こがしのようなもの)とバターや水でつくる、先が尖っている供物です。ただ、このナムギャル寺院で行われた「トゥルギャ」のトルマは、ツァンパでつくられたものではなさそうです。
日の入りの時間に合わせ、「トルマ」を藁の中に入れ、火をつけます。周りでは、僧たちがチベット仏教楽器「ンガ(太鼓)」や「ドゥン・チェン(ホルン)」を響かせ、儀式はクライマックスを迎えます。
ぱちぱちと大きな音を立て、天までのびるような炎があがり薄暮を照らします。あたりは煙のにおいに包まれていきます。人びとは、炎が燃え尽きるまで、祈りを捧げます。
この儀式は、ほかの寺院では新年1月16日に行うそうなのですが、ナムギャル寺院では、チベット本土の時代から12月29日「グトゥー」に行なっているそうです(*1)。
かつて、この儀式がポタラ宮で行われていたと思うと、胸に迫るものがあります。煙が目にしみたのか、穂の王のゆらめきが少し霞んで見えました。
「グトゥー」は、各家庭でも行われます。「トルマ」をつくるようにツァンパで人形をつくり、その人形を自分の身体の悪いところにこすりつけるのです。そうすると、その人形に悪いものがうつり、来る年は健康に暮らせるといわれています。もともと「トルマ」は、人身御供の名残だったと聞いたことがあります。とすると、この「グトゥー」で、「トルマ人形」に身代わりなってもらい、悪いものを祓うというのは妙に納得できる儀式です。
そして、この儀式が終わると、待ちに待った「グトゥク」の時間です。「グトゥー」と似ていますが、こちらは「トゥク」。「トゥク」は第8回でご紹介した「トゥクパ」のこと。そうです、年越しそばのごとく、年越しトゥクパを食べるのです。ですが、ただのトゥクパではありません。新しい年を占う、おみくじトゥクパなんです。こちらが、「グトゥク」の主食となる団子。小麦粉でつくったニョッキのようなものです。
この写真の大きい団子のなかに、唐辛子、炭、塩、羊毛、大麦の穂、小麦粉でつくったミニチュアの太陽、月、経典などを入れます。それぞれに意味があります。
① 唐辛子:口が辛い=「口がきついひと」
② 炭:心が黒い=「意地悪なひと」
③ 塩:「怠け者」
④ 羊毛:羊毛のように柔らかい=「穏やかで優しいひと」
⑤ 大麦の穂:豊穣の象徴=「富に恵まれる」
⑥ 太陽:「将来が明るく指導力を発揮する」
⑦ 月:「月のように清明な心の持ち主」
⑧ 経典:「信心深く宗教に情熱を持っている(持てるようになる)こと」
こんな深い意味を持った団子を熱々のスープの中に投入。どの団子に何が入っているのか、誰もわからなくなったところで「グトゥク」の宴が始まります。
それぞれの器に大きな団子が入っていて、団子の中に何が入っているかで、来る年がどんな1年になるかを占うのです。「あんた口がきつい!」「あんた意地悪!」ときゃっきゃっとみんなで笑い合いながら、食卓を囲みます。わたしがご馳走になった家庭では、団子の中身すべてをそろえるのが大変だということで、その名前を紙に書いて、紙を団子の中に入れていました。たしかにダラムサラでは羊毛を手に入れるのは難しいかもしれません。チベット本土では簡単に入手できるかもしれませんが。
最後に、余った「グトゥク」と身代わり「トルマ人形」を外に捨て、長い1日が終わります。こんなふうに、ダラムサラでもつつがなくチベット式の年の瀬を過ごします。この日だけは、なんだか神秘的な気分に浸り、1年の穢れを払えたような、そんな心持ちになります。ことしはチベットにとって、どんな年になるでしょうか…。
*1「トゥルギャ」に関して、今回はタシデレレストランの店主ロサンさん経由で、ダラムサラのナムギャル寺院の僧に直接、内容を確認させてもらいました。感謝です。
●著者プロフィール
小川真利枝(おがわ・まりえ)
ドキュメンタリー作家。1983年フィリピン生まれ。千葉県で育つ。早稲田大学教育学部卒業。2007年テレビ番組制作会社に入社、2009年同退社、フリーのディレクターに。ラジオドキュメンタリー『原爆の惨禍を生き抜いて』(2017)(文化庁芸術祭出品、放送文化基金賞奨励賞)、ドキュメンタリー映画『ラモツォの亡命ノート』(2017)などを制作。 『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』が初めての著作。
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