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「ペンが書けなくなるまで」1-5
最寄駅、すぐ近くのコンビニでカップラーメンと缶ビールを買って夜道を歩く。月が出ているらしい。ビルの角が柔らかく光っている。
しかし何度も言うようだが東京の空は狭く窮屈だ。せっかくの月も低く傾いてしまえば、観ることができない。上京するまで日課だった、月を親指で隠すアポロ13の真似も、ここでは難しいというものだ。
なんだか寂しいなと思っていると、ジーンズの尻のポケットの中でスマートフォンが震えた。着信は父さんからだった。もう二十五時を超えている。普段から連絡をよこすことのない父さんからの着信を俺は不思議に思いながら電話に出た。
「もしもし。何、こんな時間に」
「……だ」
「え? ごめんよく聞こえなかった」
「母さんが……死んだ」
「…………は?」
この後、父さんは何も言わずに電話を切った。父さんの声は震えていた。俺は回らない頭で二月の寒空の下、暫く突っ立ったまま動かなかった。動けなかったのだ。なんとか脚を運び家に帰ったものの、家に帰るなり脚の力は抜け、俺は声をあげて泣いていた。
母さんは昔から病気なんてしなかった。家族の中で一番パワフルで活力のある人だった。
事故か、急病か。俺はなんの親孝行もしていない。大学を卒業もしてなければ、就職だってしてないし、結婚、いや彼女すらいない。
そう。こんな時、そばで慰めてくれるような彼女はいないのだ。頭を撫でて、背中をさすって、温かい飲み物なんかを淹れてくれるような、そんな存在はいなかった。
先刻のバイトAを家まで送り届け、ご飯をご馳走になっていた時にこの訃報を聞いていたら、その擬似体験ができたのだろうか。今や、例えそんな紛い物にでも縋りたい気分だ。
どうしようもない虚無感と、寂しさとでこんなに満たされたことはない。自分で自分を抱きしめるしかなく「大丈夫、大丈夫」と自分で自分に言い聞かせるしかないのだ。夜半に取り乱して咽び泣いた後で放心し、気づいた時には空が明るくなっていた。