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「死んだ魚の目をした青年」
誰か助けてくれ。ふと日常を振り返った時、真っ先にその言葉が出てきた。
今日もスマホやデスクトップ、タブレット端末を開くと出てくるお知らせやメッセージ。心温まる言葉やくだらない言葉、はては業務連絡まで、さまざまな心を持つ言葉であふれかえる。それを見て私たちは、喜怒哀楽、虚無といった感情を何回も掘り起こす。
分かっている。生まれたことは奇跡らしい。
時間を与えられた事は素晴らしく、懸命に、大切にして生きるべきらしい。
それでも。それでもなお、一時でも。
怠惰に生きたい、社会なんて気にせず狂ってみたい。
その欲求に素直に生きたら、人としてダメなのだろうか?
言葉は何回も生き返る。識字者が一人残らず滅びるまで。
そして何回でも死ねる。翻訳され、人は幾度となくその心を理解できる。
人は一回だけ生きる。一度きりの死が訪れるその刹那まで懸命に生きる。
そして何回も死ねない。一つの脳と顔、記憶媒体を死ぬまで使い続ける。
言葉はゾンビでも、人はただの生者。疲れる事もある。
ゾンビを造り出したのは生者なのに。創造主なはずのに。
一時の安眠を得られる死にぞこないに嫉妬してしまうなんて泣けてくるね。
現代を生きる我々にとって。
本当の安らぎを得られる場所は、墓の中だけなのだろうか。
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(情報過多の果てに→死んだ魚の目をした青年)
NOTEにあげる時間を決めといたほうがいいのかな…まあ考えとこ。